『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない』(宮沢賢治)

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新年のはじまりに<2018>
2018-01-01 Mon 23:00

年越しから新年に流れる時間は、なんとも味わい深いです。
おなじように日を跨いだだけで、気持まで一新される不思議。
そして元旦は、日本人が年に一度だけ、
神妙で敬虔な気持になれる日ではないでしょうか。

ともあれ、2018年がはじまりました。

美観地区
新春の大原美術館

迷いながらも、昨年7月に再出発した拙ブログですが、
多くのみなさまに、訪問と応援をいただき感謝いたします。
内外の情勢はますます厳しさを増していますが、
今年も、どうぞよろしくお願いたします。


わたしが夢多き子供のころ、
ワクワクしながら思い描いていた21世紀は、
これほどまでに混乱した、野蛮で、
邪悪な世界ではありませんでした。

もはや人類史を数世紀も巻き戻した、中世にも似た様相の中で、
いま、死にもの狂いで鬩(せめ)ぎ合っているのが、

「光」と、「光をおそれる無知」

「善」と、「善に対する嫉妬」

「智慧」と、「智慧におびえる快楽」

「真理」と、「真理をこばむ妄執」



そしてついに、世界はこれまでにない非常事態に直面し、
核戦争の危機が、冷戦以降でもっとも高まっています。
そんな実感を覚えることもなく、日々を過ごしているとしたら、
どれほど不幸で、また無責任なことでしょうか。
口にするのも恥ずかしい、年末年始の大手メディアの、
国民をどこまでも侮辱した、なんという醜態でしょうか。

今朝は7時過ぎに、近くの空き地で、初日の出を拝しました。
よく晴れた、おだやかな元旦を過ごせました。
街を歩けば、毎年この時季に咲く「ヒマラヤザクラ」が、
すでに葉桜になっていましたが、寒空にりりしく映えていました。


CIMG3465_convert_20180101151829.jpg



しかし、この一年を終えるとき、どんなことを振り返るのでしょうか。
来年、この真冬の桜の下に立つときに、どんな気持でしょうか。
それを思うと、これまでにない不安を感じないではいられません。

なによりも懸念される憲法改悪と、核戦争ともなりうる、
第2次朝鮮戦争の勃発という、最大の危機が回避できるよう、
年始の祈りをこめて、本年の決意としたいと思います。


今日1月1日は、カトリック教会のカレンダーでは
「主の降誕8日目」に当たり、
「神の母聖マリア」「世界平和の日」とされています。
そこで初詣ならぬ、新年のミサに出席しました。


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(聖書写本挿絵より スペイン 1263年ごろ)


毎年生まれて来る子どもたちが、いのちである前に、
単純なグラフ上の数値として、増えた減ったと批評され、
母親が人格である前に、「子を産む機械」でしかないような、
人間性が否定される社会では、若者たちが結婚し、家庭を築き、
子どもを産み育てる希望や目的は、とうてい見いだせません。

キリストを産んだマリアも、養い育てた夫のヨセフも、
紀元前のユダヤに生きた、貧しい家庭の若い夫婦ですが、
たとえ自分たちの息子を、拝みに来る者がいたとしても、
思い上がったりせず、イエスを特別扱いしたりもせず、
ユダヤ人の伝統と日々の生業を通して、慎ましい生活のなかで、
大勢の兄弟姉妹と一緒に、希望と信頼をもって育てました。

しかし21世紀の日本において、2000年前のヨセフ一家ほどの、
生活力も、文化的素養も、相互扶助さえも奪われて孤立し、
社会への信頼も、将来への希望も持てない状況に棄てられたまま、
その日その日を生き延びることだけが精一杯という人々が、
どれほど多いかと思うと、やりきれず、おそろしい気持になります。

お正月の団らんでも、中韓朝への罵倒や戦争を煽る暴論を、
否応なくに聞かされる人々の苦しみにも、心を痛めます。
家族が集う場所にこそ、平和への意思が生まれるべきなのに、
なぜこの国では、その反対の方向に盛り上がるのでしょうか?

今日では、家族の形態も多様多彩に変化しましたが、
社会の基礎であることは変わらないと思います。
民主主義は、家族という成員間の平等な関係からはじまります。
平和とは、ただ戦争やテロのない状態を指すだけではなく、
まず家庭から、家族に対するDVや虐待、差別や横暴を、
根絶しなければ、とても実現は不可能だと思います。

今年は、改憲や戦争という、より切迫したテーマとともに、
世界平和の基礎である、家族の尊厳と可能性についても、
保守的な義務感ではなく、普遍的な人間観に基づいて、
新しい、創造的なあり方を再認識したいと思います。


超月2
元旦の夜の出現した、明るい「超月」。

今年も、地球上のすべての人々の歩むべき、人の道を照らせ。


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別窓 | 日記・雑感 | コメント:8
Christmas おお、大いなる神秘 
2017-12-25 Mon 01:08

クリスマスイブ。主の降誕。

カトリック教会の、夜半のミサから帰宅した。
星なき夜にも、身に凍みる寒気にも、心温まる想い。

天のいと高きところには神に栄光、
地にはすべての男女と生き物に平和あれ!

この静かな夜を、全世界が歓び、祝福する。
見棄てられ、追われ、寄る辺もなき若い母親が、
馬小屋で産んだ幼子に、思いを巡らせる。
温かい家庭の炉辺でも、冷たく孤独な路傍でも・・・
恵まれた者も、打ちひしがれた者も・・・神を心に宿す。

冬の真底、暗闇の深奥から立ち上がる力。
聖夜の、大いなる神秘と奇跡。
万象を包む闇と、心を満たす光、 
敬虔な息づかいと、切実な祈り。
神の愛の充溢を、いかに分かちあえるだろうか・・・

ふと目にした、詩人・河津聖恵のツイートが、
その想いを、簡潔に、純粋に、情感豊かに、
あますところなく伝えていた。


私はキリスト教の信者ではないが、
今夜どこからともなくみちる、聖なる空気がたしかにある。
キリストという存在が、
なぜこれほど長く、多くの人の心を励ましてきたのか。
今この闇の深さによってこそ、
みえてくるものがあるように感じる。

聖なる空気がみちる、という感じ。
それは牛の乳は一点から出るが、
それを作り出しているのは身体全体だという
ヴェイユの箴言を思い出させる。
世界という身体全体が、今夜。

信徒ではなくても私は、イブには格別の深さを感じる。
母親が熱心な信徒だったので、小学生の頃通わせられていた
日曜学校の仲間と、聖夜の劇をしたこともあった。
マリアの役は拒んで笛吹きになったが、
あの頃の闇は、ずっと心に残っている。

その闇が闇のまま、深まっている気もする。



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荒天のクリスマスとなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
みなさまがたも、ご家族や友人、愛犬愛猫とともに、
思い思いの、温かい聖夜を過ごされたご様子で、
ブログ記事を読ませていただきながら嬉しく思いました。

明日にもなれば、日本の街角では、
ツリーもサンタも一斉に退場させられ、
慌ただしく、お正月の準備がはじまりますが、
天体の運行に従い、太陽暦の新たな一巡のはじまりを祝う
晴れやかな気持と、豊かな分かち合いも大切にしたいですね。

今日の世界情勢を思えば、暗澹たる気持になりますが、
祈り、かつ自らも行動する、確たる信仰を持ちたいです。


クリスマスの深夜に、
カトリック教会の典礼で捧げられる聖歌。
「おお、大いなる神秘(マグヌム・ミステリウム)」


“O Magnum Mysterium”





O magnum mysterium,
et admirabile sacamentum,
ut animalia viderent dominum natum,
iacentem in praesepio.
O beata Virgo, cujus riscera meruerunt
portare Dominum Jesum christum.
Alleluia!

おお、大いなる神秘、
奇《くす》しき秘儀。
家畜らが、生まれし主を見る、
飼い葉桶に横たわる、主をば見る。
おお祝されしマリア、汝が胎は尊きものなりき、
主イエス・キリストを宿したるほどに。
アレルヤ! (訳詞:那須 輝彦)



2千年前のイエス・キリストのご誕生は、
世界中の厳しい環境のなかで、安心して生まれて来る場所がない、
子どもたちの状況を思い起こさせます。

しかし今でも、
「安心して産むことができる環境がない母親」
「生まれて来る場所がない赤ちゃん」が、日本にはたくさんいます。
残念ながら、これが依然として、日本のなかにある現実です。

今夜、主の降誕をともに喜び祝いながら、
わたしたちもキリストの愛によって、
すべての命が温かく迎えられる社会を築いてゆく決意を、
新たにしてゆくべきではないでしょうか。
(大塚了平 福岡教区司祭)



イエス・キリストだけではない。
すべて生まれてくる子どもたちは、
国も、人種も、宗教も、身分も、出自も関係なく、
神に愛され、祝福された、尊い命の授かりもの。
「大いなる神秘」とは、受胎と妊娠、出産そのもので、
命の尊厳こそ、クリスマス本来の意義だと思います。

だからこそ、この地上の、全てのいのちの始まりに、
暴力と強要ではなく、神の祝福に与る、愛と慈しみがあふれ、
すべての家庭が、思いやりと健やかさに満たされんことを。

授けられた子供の出自や性別、障害の有無などを理由に、
誤った価値観で、いのちの取捨選別がなされることなく、
世の悲惨な環境のなかで、愛されるべき命が奪われることなく、
何よりも守られるべき、母親と子どもたちが大切にされ、
だれもが幸せに生きてゆける社会を創るために、
これからも怖れず怯まず、前に踏み出したいです。


冬の天上に輝くクリスマスツリー。

無題
クリスマスツリー星団(NGC2264)


(クリスマス共同祈願より)
み旨に従い、救い主の誕生のために仕えたマリアのように、
わたしたちも、祈りと奉仕をもって、
神の計画に、貢献することができますように。

争いと分裂に苦しむ世界のために祈ります。
キリストの光が人々の心を照らし、
ともに平和への道を歩むことができますように。

貧困や虐待の問題に立ち向かい、社会のつながりのなかで、
未来への希望である子どもたちのいのちを、
大切に育ててゆくことができますように。
混沌としたの世の中で、確かなものを求めている人々の心に、
主の降誕の福音が響きわたり、希望と安らぎが訪れますように。


Gloria in excelsis Deo  
Et in terra pax hominibus bonae voluntatis.


別窓 | 祈りと信仰 | コメント:3
神を待ち望む季節「目を覚ましていなさい」
2017-12-03 Sun 23:18

いま、冬の夜空には、
今年もっとも大きく明るいと言われる
美しい満月が輝いていることでしょう。
その乳白の光の真下で、冬の王者オリオン座さえも、
遠ざかり、ぼんやりと影薄く、霞んでみえることでしょう。

クリスマスの季節ですね。

今日12月3日の日曜日は、待降節第1主日でした。

カトリック教会では、クリスマスのことを、
(キリストの)降誕祭と呼んでいますが、
クリスマスを準備する期間を、「待降節(アドヴェント)」と呼び、
4週前の日曜日から始まります。(「主日」とは日曜日のこと)
教会では、待降節から新しい典礼暦の一巡がはじまります。

待降節の期間には、アドヴェントリースとも呼ばれる、
常緑樹のリースに添えられた4つのキャンドルが飾られ、
1週ごとに、ひとつずつ灯りを点してゆき、
キャンドルの灯りが4つそろうと、クリスマスを迎えます。
信者ではなくても、キリスト教系の学校などに通われて、
お祝いされた行事を、思い出される方もおられるでしょう。

日本での一般的なクリスマスは、
年末の街角を彩る、華やかな雰囲気として定着していますが、
サンタクロースやツリーやキャロルのイメージは、
多分にアメリカの商業主義から入ってきたものなので、
ここではふつうに教会で祝われる、慎ましくも心豊かな、    
本来的なクリスマスをご紹介したいと思います。

待降節には、ふたつの意味があり、
ひとつはもちろん、クリスマスの準備期間として、
救い主を預言した、旧約聖書の言葉に耳を傾けながら、
神の計画によるキリストの降誕を追体験するものですが、
またそれを通して、世の終わりにおけるキリストの来臨、
神との新たな出会いと、永遠のいのちに心を向けながら、
悔い改めと浄化、希望と喜びをもって待ち望みます。

キャンドルの色と意味するものは、それぞれ、
第1主日が濃紫(償いと浄化)、第2の主日は薄紫(希望)、
第3主日が桃色(喜び)、第4主日は白(世の闇を照らす救いの光)で、
このあたりは、信仰に関心がなければ、特にどうでもいいのですが、
この国では、いつまでも少数者でありつづけるクリスチャンとしては、
さらに慎みと遜りの思いをもって、過ごしたいと思います。

パレストリーナの神秘的な聖歌をどうぞ。



Gloria in excelsis Deo  
Et in terra pax hominibus bonae voluntatis.
いと高きところには栄光、神にあれ。
地には平和、主の悦び給ふ人にあれ。


<待降節第1主日 福音朗読>

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。

気をつけて、目を覚ましていなさい。
その時がいつなのか、
あなたがたには分からないからである。

 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、
 僕(しもべ)たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、
 門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。

だから、目を覚ましていなさい。

 いつ家の主人が帰って来るのか、
 夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、
 あなたがたには分からないからである。

 主人が突然帰って来て、
 あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。

あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。
 

目を覚ましていなさい 

(マルコによる福音書13章33~37節)

キリスト教信仰や思想信条には関係なく、
つね日ごろから、目を覚まして過ごすことは、
生きる姿勢としても、大切なことだと思います。
そして、ここで言われる「主人(夫ではない)の帰宅」とは、
人生における重大で、決定的な出来事の不意打ちです。

原発事故も、それに続く大規模な政治的反動も、
今日が来たように明日も来ると、誰もが信じていたところに、
ある日突然、日常を引き裂いて、容赦なく襲ってきました。
心ある人々は、たびたび警告や批判を繰り返してきたのに、
私たちは耳を傾けるよりも、根拠のない楽観を優先しました。
そのうえに、悔い改めなき希望を重ねても虚しいだけです。
それは、次の深刻な事態を招く危険にも繋がります。

キリストは、マルコ福音書のなかで、
「目を覚ましていなさい」と呼びかける前に、
「人に惑わされないようにしなさい」とも警告しています。

生き方や価値観の多様性や、異なる意見や文化への寛容が、
その内容までも深く、厳しい吟味と淘汰を経ることなく、
新しいお題目として喧伝されるようになりましたが、
それと引き換えに、個人の尊厳や命の重さ、真理や正義までもが、
限りなく相対化され、矮小化され、軽んじられるようにもなりました。
より小さな人々は、都合よく分断され、寄る辺もない孤独のなかで、
世の危険な動きに巻き込まれながら、抵抗するすべもありません。

いろんな人が、いろんな巷説や意見を唱えますが、
神が人間に与えた、掛けがえのない個性の豊かさと、
人々が互いを生かし、尊重し、認めあう寛容さは、
すすんで譲ることができるものと、決して譲ってはならないものが、
明らかにされ、守られていなければ、成り立つことができません。

なにものにも目を曇らされることなく、おのれにも甘えることなく、
国や民族、宗教も、時代をも超えて、人類が求め続けてきた
真理と善、正義や平和いう、普遍的な価値や理想を尊び、
現実の困難を前にしても、その実現を悲観することのないように、
神とともに、目を覚まして歩んでゆきたいです。

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NGC 7822: Stars and Dust Pillars in Infrared
Image Credit: WISE, IRSA, NASA; Processing & Copyright : Francesco Antonucci


別窓 | 祈りと信仰 | コメント:2
市民と野党の共闘を勝利へ! 比例は共産党へ!   
2017-10-21 Sat 22:28

超大型の台風が、日本列島をめがけて近づいている。

なぜ!よりによって大切な選挙の日に・・・と思ってしまう。
荒天はどうしても、投票率と選挙結果に、影響を与えてしまう。
まして巨大台風だ。選挙どころではない人もいるだろう。
警報が発令され、厳重警戒しなければならない地域もあるはずだ。
なによりも弱者には、あまりに不公平である。

災害列島の日本。政府には、こういう場合の妙案はないのか。
自然現象というものは、人知の予測をはるかに超えるが、
嵐のなかを外出すれば、人命の危険さえ考えられる。
交通機関は止まったり、学校や会社が休みになる場合には、
緊急事態として、投票日も延期するなどの配慮はできないものか。

天の試練は容赦ないな。
だが、落ち着いて最善を尽くそう。


さて、今日で衆院の選挙戦も、いよいよマイク納めだ。
雨のなか、駅の方角からは、最後のお願いが響いてきた。
夜鳴き蕎麦が、その声をかき消しながら、通り過ぎて行った。
明日は投開票日。どんな展開になるのか、胸苦しい思いがする。

今夜は、たったひとつの思いだけ書き綴ってみたい。

もしよろしければ、
いちばん最後の動画だけでもご覧ください。


安倍政権による、憲法改悪を阻止したい。
だから、「比例は共産党」へ
いま願うのはこれだけだ。

報道によれば、共産党は、いずれも苦戦しているようだ。
公示前、共産党は21議席を占めていたが、
それを大きく下回ることになるかもしれないという。
改憲や安保法制に反対するリベラル票が、共産党よりも、
立憲民主党のほうに、集中しているからかもしれない。

立憲民主党の健闘は、大いに意義のあることだし、応援している。
だがここで、共産党が減速するのは、あまりにも惜しいと思う。

衆議院での議案提出には、提案者と20人以上の賛成が必要だ。
共産党の21議席は、貴重な意味を持ち、守り抜かなければならない。
「なんでも反対」どころか、現実に政治を動かす勢力となるからだ。
共産も立憲も、それぞれの持ち味と経験を生かして、安倍政権に挑み、
改憲を阻止する世論の両輪として、大活躍してもらいたい。

共産党は、安倍政権に対する、市民と野党の共闘の要でもある。

「安倍一強」に対して、野党がバラバラではとても勝ち目はない。
反目をやめて、ひとつの目標に向けて、いまこそ野党が協力し、
なにより選挙で勝つことのできる、確実な受け皿をつくってほしい、
安倍政治に、煮え湯を飲まされ続けた国民の、渾身の願いだった。
市民と野党の共闘は、そこから生まれた大きなうねりだ。

「共産党アレルギー」と呼ばれる偏見は、まだまだ根強い。
いまだ冷戦思考が抜けないのか、共産党と聞くだけで恐怖し、
旧ソ連や北朝鮮の全体主義や、ポルポトの大虐殺を挙げながら、
反社会勢力のように見なすのだが、物事をよく見てほしい。

21世紀の日本国で、暴力革命や共産党一党独裁が可能だろうか?
むかしは盛んに反対を唱えていた。天皇制や日米安保に対しても、
いまでは柔軟な姿勢に転換し、現実的な提案をしている。
好き嫌いはあろうが、共産党への歪んだイメージは誤りだ。

それでもおもしろいのは、政治に絶体絶命の危機が迫ると、
国民の心理は、まるで盤石の城塞か避難所であるかのように、
共産党を求めて、一斉に駆け込んでくることである。

「困ったときの共産党だのみ」「票の雨宿り」とも言われるが、
2014年の衆院選で、一挙に議席を9⇒21議席まで伸ばしたのも、
その時、安倍政権に対する最後の砦が、共産党だけだったからだ。
東京都議会でも、共産党は野党としての存在感を増した。
歴史が古く、目標を高く掲げ、理論にも強く、首尾一貫ブレない主張。
表には出さないが、日本人は、じつは共産党を信頼しているのだ。

人に話を聞いてみると、こんなことを言われないだろうか。
「共産党がいちばん正しいことを言っている。でも・・・」
この「でも・・・」については、人それぞれに異なると思うが、
そこを、ぜひ乗り越えてほしいと願わずにはいられない。

野党共闘は、様々な形で模索されたが、立憲4党とよばれる
民進党、社民党、自由党、共産党が、選挙協力を行うことで、
昨年の参院選では、野党統一候補が、11の一人選挙区で勝利。
比例代表でも、野党4党で44の議席を獲得するなどの成果があった。

だが民進党の内部では、絶えず反共が、不協和音としてくすぶり、
ついに前原氏が、希望の党へ合流すること決め、共闘を放棄し、
自由党もこの流れに従ったときには、大変なショックだった。
とつぜん民意の受け皿を失ったからだ。棄てられた。悔しかった。
「枝野立て!」という悲痛な叫びが、草の根から沸き起こった。
立憲民主党は、こうした経緯と、絶大な市民の声を受けて作られた。

この動きに対して共産党は、野党で統一候補を立てるために、
全国289の選挙区のうち、67の選挙区で、共産党候補者を降ろし、
立憲民主党や社民党の候補を、全面的に支援することにした。
安倍政権に、改憲発議をゆるしてはならないという決意からだ。

改憲の発議には、衆議院(定数465)の、3分の2(310)以上の
賛成が必要だが、自民・公明・維新・希望などの改憲勢力が、
今回の選挙で、この議席数を上回れば、改憲は現実的なものとなる。

立憲民主党の候補者は79名。もし候補者全員が当選して、
これに社民党議員(2?)や、無所属議員を加えたとしても、
改憲の発議を阻止できる、3分の1の議席には到達しない。
そこで絶対に必要不可欠なのが、共産党議席の伸長である。


だからこそ、「比例は共産党」なのだ。

いまは、これしかないからだ。
劣勢をはね返し、これまでの勢力を維持し、さらに増やしたい。

忍耐を重ね、大きな犠牲を払いながら、共産党は古い殻を脱ぎ捨てた。
民衆との信頼を得て、野党共闘を繋ぎ留め、並々ならぬ決意と覚悟で、
まっしぐらに改憲と戦争に向かうこの国を、全力で守ろうとしている。

最後に、ひとつの動画を紹介したい。
東京12区で立候補した、共産党の池内さおり氏だ。





台風が接近します。
何よりもまず、身の安全を確保して、
投票所に向かってください。

よろしくお願いします。


別窓 | 政治 | コメント:9
立憲主義の回復のために ③底辺からの民主主義
2017-10-19 Thu 21:52

悪天候との闘いでもある衆院の選挙戦も、いよいよ終盤だ。

自民党の圧倒的優位は相変わらずだが、中盤を過ぎたころから、
立憲民主党への支持が、希望の党と拮抗、あるいは逆転している。
反自民の批判票が、希望ではなく、立憲民主に集まり始めたようだ。
無謀を極めた民進党の解体は、いずれ明暗を分けるだろうが、
希望の党の失速は、ますます自民との接近を意味するかもしれない。

だがいまは、一票の積み重ねに集中しよう。

マスコミは伝えようとしないが、枝野人気は大したものらしい。
行く先々に熱気があふれ、大勢が足を止めて、耳を傾ける。
枝野氏の語る、いまこの国が取り戻すべき、本来のあるべき姿が、
誰にでも分かりやすく、すんなり納得のいくものだからだろうか。
厳しい闘いであるにもかかわらず、焦燥や悲壮感ではなく、
不思議にも、懐かしさと安堵感がわいてくるらしい。

こういう、真っ当な言葉が聞きたかったんだよ。
それが、今までなかったんだよ。ずっと待っていたんだよ。


そんな胸の内が聞こえてくるかのようだ。

扇動や虚言はもうたくさんだ。自然な共感や連帯がほしい。
それは、あの東日本大震災と原発事故によって失われて以来、
日本人が疼くように求めていた、政治への信頼ではあるまいか。
強いリーダーが大風呂敷を広げる、理想についてゆくよりも、
民衆とともにあり、その声に押されて進む、自分たちの代弁者。
いま日本人が願うのは、そんな政治家ではないだろうか。

立憲民主党が目指すものは「まっとうな政治」。
そのなかで私が注目しているのは、「ボトムアップの民主主義」だ。

枝野氏は、いま政治にあるべき対立軸は、保守VS リベラルではなく、
「トップダウンvsボトムアップ」であると説明する。
これには、眼からウロコである。

トップダウンとは、上意下達。
お上の決定に国民が従うこと。

ボトムアップとは、底からの突き上げ。
草の根の民衆が主役になること。


権力やお金や情報をほぼ独占している、一握りの上層部のためではなく、
「国民の日常の暮らし」や「現場のリアルな声」に根差した政治だ。
一言でいえば、国民の暮らしの、根本的な立て直しである。

働けども働けども、暮らしが少しも楽にならないのは、
努力が足りないからではなく、政治に問題があるからだ。
圧倒的な格差が放置されたままでは、経済が停滞するだけでなく、
それ自体が人権侵害でもあり、民主主義の屋台骨まで壊してしまう。

選挙で国民の重視するものも、改憲や北朝鮮や安保法や原発よりは、
暮らしに直結する雇用や格差是正、年金や医療、社会保障である。

だからこそ安倍政権は、経済最優先を掲げ、国民の支持を得てきたが、
アベノミクスの成果として強調される、過去最高の企業収益やらGDP、
バブル期を超える有効求人倍率、増加する外国人旅行客などの数字を、
得意気に並べれば並べるほど、また、それらが事実であるほど、
庶民生活の実感とは、あまりにもかけ離れて、虚しくなるばかりだ。
そして消費増税は、今ほんとうに必要なことなのだろうか。

アベノミクスの唱える理論(トリクルダウン)では、
富裕層がより豊かになることで、そのお零れが貧困層にまで及び、
全体に活力が戻るそうだが、それ自体、人を馬鹿にした理屈だし、
実際にも失敗し、富めるものがますます富んでいるだけである。

経済とは本来、カネの出入りや使い道、暮らし向きだけを意味しない。
国民が求める景気回復も、単に金回りがよくなればいいのではなく、
モノがあふれ、お金持ちになることだけが、豊かさではない。
どうすればモノが売れるか、庶民がサイフの紐を緩めてくれるか、
そんな卑しい話ばかりしては、卑しい社会ができあがるだけだ。

残念だが安倍政権は、経済再生の期待を、一身に任されながらも、
その人間観は貧しく、人は人格を消された、数字でしかなかった。
景気回復が、生活のゆとりや質の向上として、実を結ばないなら、
富裕層をより優遇する、偏った政治だったと言われても仕方ない。
安倍政権への大きな期待は、的外れだったのではあるまいか。

国民生活の立て直しは、景気の向上や経済の再生だけではなく、
民主主義社会を支える国民に必要な、充分な教育と基本的な素養、
健康で文化的な生活の回復にも繋がり、分厚い中間層を生み出す。
それが社会を健全で信頼あるものにし、責任ある生産と消費を促す。

それには暮らしや子育て、将来や老後に、不安があってはならない。
若者が結婚できず、女性が子ども産めない社会に、未来があろうか。
高齢者や病人や障害者が、厄介者扱いされる社会でもいいのか。
まず国民生活全般の、公平で確実な下支えから始めてもらいたい。

有権者として大切なのは、漠然とした「日本人」であるよりも前に、
まずは生活者、納税者、消費者、労働者としての実感であり、
そこからのリアルな視点で、物事を観察し、批判し、
選挙を通して、その声を政治に届けることだと思う。

2009年 民主党 鳩山政権成立 投票率69.28%
2012年 自民党 安倍政権成立 投票率59.32%
2014年 自民党 安倍政権続投 投票率52.66% 

(総務省「国政選挙における投票率の推移」を参照)

総選挙の投票率を比べて見ながら、単純に言えることだが、
安倍自公政権が成立し、5年にも渡って維持されているのは、
鳩山民主党政権誕生のときに投票した、10~16%もの有権者が、
失望と不信と無関心のあまり、選挙を棄権していることが大きい。
投票率が下がると、組織票を持つ自民・公明などが、断然有利となる。

だが私は、棄権を続ける人達や、投票先を決めてない無党派層が、
かならずしも反安倍で、野党を支持しているわけではないので、
紋切り型の「選挙に行こう」という呼びかけはしていない。

結果次第では、国の根幹が大きく揺らぐ国家存亡の危機であっても、
自公維希へ投票したり、棄権や白票などもっての外という決めつけは、
相手からすれば、ずいぶん傲慢で失礼な態度ではないだろうか。
ここぞとばかりに、安倍政治の暗黒面や、恐怖の未来を強調しても、
たいていの人は冷めたものである。そのことは痛感している。
それよりもまず、なぜ自分はこの党に、この候補者に投票するのか、
いまの思いをじっくり話してみるほうが、強いメッセージになると思う。
選挙の時だけ人に近づいてくる、怪しげな人物では信用されない。

「釣った魚にエサはやらぬ」とばかりに、投票が終われば用済み。
自分の一票など、投票率嵩上げのために利用されただけなのか。
根強い政治不信から棄権している人が、それでも重たい腰をあげて、
選挙に行くのは、よほど危機感や、切実で必死な想いがあるからだ。
あとは知らん顔などされたら、たちまち大離反を招くのは当然だろう。

無党派層を動かすとは、山を動かすほど大変なことであり、
いざ動いた山は砂山のように脆く、すぐに崩されるかもれない。
砂山を盤石の岩にするまで、辛苦をともにする覚悟はあるのか。
有権者は見ていないようで見ている。その目はとても厳しい。
自らの言動に責任が問われるのは、もっともなことだ。

一票は数字ではなく、ひとりの魂とみなすべきだ。
だが現実には、その一票さえも投票できない人々がいる。
棄権どころか、棄てるにも、権利そのものを奪われた人々だ。

高齢で身体も不自由な上に、知人もなく、一人暮らしであったり、
病気や怪我で余命いくばくもなかったり、重い障害を抱えていたり、
DVから命を守るために身を隠していたり、虐待されていたり、
ブラック企業やブラックバイトで、休日もなく、長時間働かされたり、
介護で一瞬も目が離せなかったり、餓死寸前の母子家庭であったり、
貧困のため教育も受けられず、選挙が何かさえも知らなかったり、
いじめや引きこもり、鬱症状のため家から一歩も出られなかったり、
人間の生活どころか、今日明日の命を維持するだけで精一杯な、
ギリギリの生存条件で、日々を生き延びている人々が大勢いるのだ。

安倍政権が誇る成功例の、きらびやかな数字の羅列にも、
野党が望む、投票率の嵩上げにも、何の役にも立たない、
参政権などあれどもなきがごとき、理不尽な状況に追い込まれ、
存在そのものが、最初から見えなくさせられている、
この国が事実上、見棄てた人々は、いったいどうなるのか。

枝野氏の訴える、「ボトムアップ・デモクラシー」は、
まさに、これら底辺の人々のためのものでなければ意味がない。
もちろん一朝一夕に、実現できるものではないのだが、
選挙が終われば、そんな標語さえも忘れられるようでは困る。

みずからの言葉に背き、みずからを冒瀆するな。

立憲民主党という、いま有権者に与えられた、千載一遇のチャンスを、
国民が息長く、根気強く支え、育ててゆけるかどうか、
それが、この国の未来を左右すると言っても、過言ではないだろう。


では景気づけに・・・ John Williams “March of The Resistance”



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