『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない』(宮沢賢治)

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東アジアの新しい歴史の開闢へ
2018-04-26 Thu 23:32

晩春の、水と砂塵を浮かべた空の向こうに、太陽が沈んでゆく。

いよいよ明日、東アジアの新しい歴史の扉が開かれ、
朝鮮民族の、完全な「光復」への、大きな歩みが刻まれる。

その日をどれほど、分断された南北の、幾多の人々が待ち望み、
火を飲まされた想いを抱きながら、生き死にしていったことだろう。
故廬武鉉元大統領にも、ぜひ生きて、この日を迎えてほしかった。
南北の融和と統一に、命がけで尽力した人々を思い出しながら、
たとえ日本人であろうとも、涙を禁じることができない。

いつのころだったか、たぶん前世紀の終わりごろだと思うが、
ある本で読んだ、韓国の方の言葉を忘れることができない。

「南北が統一されるとき、
 それをいちばん喜んでくれるのは、日本人でしょう」


眩暈がしそうだ。
この言葉に託された、深い想いと信頼を踏み躙る、
いまこの国に花粉のごとく瀰漫する、憎悪と差別と暴言の、
目も当てられないほど恥ずべき惨状に。

全世界が南北の融和と、朝鮮戦争の終結を歓迎し、温かく見守る、
「歴史の明日」を前にしても、この国はそれを、心から喜びもしない。
マスコミもまた、冷静さを装いつつ、すでに歴史の大舞台のどこにも
立つ瀬なく、蚊帳の外に追われた惨めさに、不安と焦りを隠さない。
だがそれは、みずからの歴史を蔑した日本人の、自業自得だろう。
東アジアの夜明けを前に、この国の凋落は、むしろふさわしい。
(だが、これからどうするつもりなのか?)

いま日本人のあるべき姿は、南北分断の元凶である日帝支配と、
朝鮮戦争による特需のおかげで、戦後日本の経済成長が始まった
改竄も隠蔽もできない過去を省みつつ、歴史の扉の前に、
畏敬の念をこめて慎ましく並び、一切の邪魔をしないことである。

なぜそれができないのだろうか?

誰もが気付いているように、北朝鮮による拉致問題と核問題も、
安倍政権には、解決に向けて積極的に取り組む意思も力量もなく、
ただ「北」への憎悪と恐怖を煽るのに、最大限利用してきただけだ。
核ミサイルという「軍事的脅威」あればこそ、政権支持率も上がり、
安保法制や9条改憲を推し進める、説得力にもなりえたので、
朝鮮半島の非核化や平和締結など、晴天の霹靂なのである。

残念だが、この国ではリベラル系のメディアさえもが、
韓国や北朝鮮に関しては、ネトウヨに等しい貧しい認識のまま、
上から目線で遠吠えよろしく、脅威と不信の喧伝に励むだけで、
日本の子どもたちと、韓国や北朝鮮の子どもたちが、
アジアの仲間として、ともに遊び、笑い、学び、手を取り合い、
平和を創造してゆく、豊かな未来を希求しようともしない。

「圧力」の一つ憶えは、日本の国際的孤立を招いただけだった。
私たちはいま、あまりにも偏狭なメディアの「洗脳」から脱却し、
安倍政権の主張を無批判に、そのまま自分の意見とすることなく、
民衆の交流と友情を育み、進んで信頼関係を築くべきであろう。

なぜその一歩が、踏み出せないのだろうか?

詩人の河津聖恵氏は、歴史観を欠いたバッシング報道に、
「歴史どころか、人間の消滅すら感じる」と述べているが、同感である。

明日は私たち日本人が、
歴史の大きな流れから確実に弾かれていく
「歴史的」な日になるのかも知れない。

しかし歴史だけが、人間を生み出していく。
歴史から見捨てられては人は、人として生きていけない。
明日から朝鮮半島は未来へ進むが、
日本は過去へ進まなくてはならないのだと、歴史は告げていると思う。
(河津聖恵のブログ「詩空間」より)



晴れがましい明日の舞台を前に、南北の民衆をはじめ、
文在寅氏や、金正恩氏は、いまどんな気持であろうか。

人は決して、ひとりだけで生きているのではない。
過去と未来を無視して、いまここだけを、生きることはできない。
明朝、ふたりの首脳が出会う板門店には、
非業の死を遂げた、無数の死者たちも集い、ともに見守るであろう。
凄惨な過去に向き合ってこそ、未来の平和が創造される。

「対話のための対話に意味はない」???
悪あがきの屁理屈は無用。
民族の血は水よりも濃し。
他人の侵すところに非ず。

宇宙の軸をも傾けて、新しい水平線が切りひらかれる、
夢のおとずれる夜明けとなりますように。

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別窓 | 日記・雑感 | コメント:10
どこにも行きたくない贅沢な春
2018-04-02 Mon 22:34

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さくらたんぽぽはなにら

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別窓 | 花の歳時記 | コメント:2
虚偽ではなく本音でもない、「真実」を語ること 
2018-03-31 Sat 19:36

記事の準備はしていたけれど、どうしても仕上がらず、
その日には、投稿する気にもなれなかったが、はや桜の季節。
すっかり忘れられたころ、今年もなにか想いを書いておきたい。

2011年の東日本大震災から、今年でもう7周年になるのか。
歳月は風のように荒び、記憶は岩のように沈んでゆく。
日本人にとって、3.11はすでに、忘れないための記念日なのか。
いまある「国難」との繋がりを、考えてみることもないのだろうか。

あの日の出来事によって、この国が露呈した長年の失政と負債を、
復興の名で覆い隠し、被災者だけに丸ごと背負わせ、
国民にも歓迎されない「東京五輪」で、欺くことはできないはずだ。

『地震のあとには戦争がやってくる』

いのちを踏み躙る政治が行われた、異様な歳月だったと思う。
国民はなべて、「生かさぬように殺さぬように」統治されるものだが、
文句が言えないのは、誰もがアメとムチに踊らされているからだ。
いま国会では森友問題で、安倍政権が窮地に立たされているが、
そもそも3.11のあとに、安倍政権を選んだのが間違いだった。

経済格差は、人々から働く誇りと生きる喜びを奪い、そのはけ口に、
社会的弱者や少数者が、公然と敵視され、迫害されるようになった。
政治家が率先して攻撃し、メディアが喧伝し、若者がヘイトを繰り広げ、
集団暴行や大量殺人が起きても、他人の不幸など構っていられようか。
働けども暮らしは楽にならず、過労で誰がいつ死ぬかも知れない。

近隣国を侮蔑し、「日本スゴイ」の自画自賛に酔っている間に、
この国は彼らに努力に、技術力や競争力を追い抜かれただけでなく、 
先進国としての国際的信頼や存在感まで、失墜させてしまった。
某国の脅威を煽り、安保法を整備して、国民をアラートで脅していたら、
彼らは核戦争の危機から一転して、日本など相手にせず対話を始め、
長年の軍事緊張を解消すべく、東アジアの平和構築を模索している。
それでもなお、9条改憲に拘る権力の妄執を、国民は阻止できるのか。

戦後70余年をへて音もなく崩壊した、民主主義の瓦礫の山も、
津波の廃墟と同じくらい無残で、凄惨なものだろう。
憎しみによって破壊され、無関心によって喪失したものは大きすぎる。
自浄作用どころか、どこまでも自己冒瀆を繰り返すこの国は、
この先どうなってゆくのだろうか。なぜこれほどまでに、
虚偽や無法、暴力や差別に寛容な社会になってしまったのか。

少なくとも、後続する1~2世代が失われたことは、大きな痛手だ。
若い世代が、あれほど簡単に、凡庸な悪に染まってしまうとは!
彼らには、梃子でも動かぬ頑固者となって対峙せねばなるまい。

河津聖恵氏は、「震災以後、詩とは何か」を問い続ける詩人だ。
それは、「アウシュヴィッツ以後、詩を書くのは野蛮だ」という言葉を
思い起こさせるが、規模や実態の違いはあれ、両者は似ている。
社会学者の栗原彬氏は、水俣病は「ジェノサイド」だったと書いたが、
フクシマも、おなじ権力構造が引き起こした、国家と企業による犯罪だ。 

河津氏は、詩を書く者たちに疑義を呈する。
「なぜ、3.11を歴史的に見ようとしないのか」と。
津波の廃墟を、諦念や悲哀を演出する「書き割り」に用いる
歴史性の欠如した「震災詩」に、厳しい視線を向ける。
「それは絶対的に間違っているのだ」と。

犠牲者の多くは、「今」しか見ようとしない非歴史的な経済神話のなかで、津波の危険があるにもかかわらず、無理に開発した住宅地に居住していた人々ではなかったか?また、原発の起源には、無謀な戦争の結果この国が蒙った原爆という、最大の歴史的凶器があるのではないか?そして今回の原発の過酷事故は、大きな津波や地震を「想定外」と正当化し、歴史の教訓に学ぶ謙虚さを忘れた結果、起こったのではないか?電源喪失対策を怠っていたのは、金銭のために人の生命の危険を無視し、未来からも過去からも目を背けて、ただ場当たり的に原発マネーの獲得に狂奔した結果ではないか?(河津聖恵『パルレシア 震災以後、詩とは何か』より)

「歴史的に見る」とは、出来事を歴史年表に位置付けることではない。
物事の視野を、「いま・ここ・自分」という自己中心の感性から、
時間的には人類の過去と未来へ、空間的には生命環境や宇宙へ、
内面的には、神や良心に至るまで広げてゆくことで、
それまで見えなかった背景と因果を照射し、
隠された欲望と権力の構造を抉り、消された無数の声に耳を傾け、
とりわけ死者たちの喉に、それぞれの言葉をあてがいながら、
大いなる出来事の本質を解き明かす、人間ならではの思索である。
それが歴史を学ぶ意味であり、未来に対して責任をもつことでもある。

歴史を知ればこそ、なぜ『地震の後には戦争がやってくる』のかも、
決して唐突なこじつけではなく、おのずから意味が理解できるはずだ。
この思索を嫌い、怠る者が、ふたたび同じ過ちに加担するのだろう。

「原子力緊急事態宣言」は、7年後のいまも解除されていない。
しかしフクシマは、すっかり過去のものとされ、放射能への懸念も、
科学性を欠いた不安に過ぎない、心の問題に押し込めてしまった。
事故現場で、危険な被曝労働を続ける作業員を思い出すこともない。
かといって「東京五輪」に向けて、国中が躍進しているわけでもない。
国民はもう、なにがなんだが、訳がわからなくなっているのではないか。

それは、(嘆息とともに言うが)
日本人が、言葉を殺してしまったからだと思う。
いまや、「嘘偽りや無関心が執拗な被膜となって、社会を覆いつくし
言葉を持つ人間を窒息寸前に至らしめている」(河津聖恵)
からだ。

言葉とは語彙ではない。迷信的な言霊でもない。
理性であり、思考力である。信義でもあり、責任でもある。
「文は人なり」とも言われるが、言葉とは人格そのものである。
だからこそ、人の発する言葉は、真(まこと)でなければならず、
嘘や虚言、偽証は、舌を抜かれるほどの重罪なのだ。

だがこの国ではいま、一言にも重責あるはずの政治家どもに、
その覚悟は微塵もなく、言論の府では虚偽と隠蔽、改竄が常態と化し、
言葉は人を欺き、騙くらかす、じつに便利な道具に成り果ててしまった。

マスコミの劣化も著しい。ましてネットなど言うに及ばずである。
ネトウヨのヘイト、リベラルの寛容と多様性、メディアの両論併記、
子どもたちの減らず口の、なんとよく、根性の似通っていることか。

深夜の討論番組で、ある評論家が『世界人権宣言』を攻撃しながら、
「そんなものは、アウストラロピテクスの時代にはなかった。
人類に共通する普遍的価値観なんかではない」などと叫んでいたが、
その通り、400万年もの大昔に、人権の概念などあろうはずがない。
だが同じく「南の猿」たちは、現代人のようにパンツも履かなければ、
風呂にも入らず、メガネも掛けず、PCも使用しなかったようである。
そんな化石人類の時代から、人権や民主主義、PCやスマホを生んだ、
今日に至るまでの、人類の長い長い歩みにこそ、意味があるのだ。

さすがにこんな妄言など、誰も相手にはすまいと打ち棄てていたが、
しかしそれが、どうもこのところ、少しもそうではない雲行きなのだ。
もしかするとこの国には、本当にそれが理解できない人間のほうが、
ずっと多いのではないのかと、寒気を覚えるようになってしまった。

なぜなら、人権にせよ民主主義にせよ、それがもつ歴史性を考慮せず、
ただ自分がそう感じる意味合いに勝手に受け止めて、
気に入らなければ叩きのめす独り相撲が、昨今の言論にはあふれ、
一人前の知を気取って、大威張りで闊歩しているからだ。
あげくの果てには、なんと教育者や弁護士までが、臆面もなく、
「人権とは何か、自分にもよく分からない」と、苦笑してみせる始末だ。

民主主義社会を支える基本理念や価値観を、教える者と守る者が、
それがなんだかわからないとは、一体全体どうなっているのか。

「反日」の一つ憶えは、この国ならではの非歴史的感性の典型だが、
あるいは「愛国」とは、文字通り「国を愛すること」だと思い込んだり、
「保守」を、「国柄や伝統、家族や故郷を守ること」などと言い出して、
今ではむしろリベラルが、すすんで右派的価値を称揚する有様だ。
単純な無知でも、歴史を蔑ろにすれば、思考は衰弱するしかない。

こんな状態ではもう、言論以前に、日本語が通じないと言うべきだろう。
圧政に抗議し、声を挙げてきた人々が、黙り込んでしまうはずだ。
心優しい人々が、ふわふわ言葉しか使えなくなってしまうはずだ。
子どもたちが、基本的な読み書きさえできなくなってしまうはずだ。
(いや、大学生さえも小学生以下の場合がある)

ここで先に引用した、河津聖恵氏の詩論に戻ろう。
河津氏は3.11のあと、詩人らが「大震災を前に、詩は死んだ」などと、
平然と、乱暴に断言するような態度に、大きな危惧を抱く。
詩は、「震災によって、唐突に死んだのではない。
想定外の震災被害や、原発過酷事故をもたらしたのと
同じ何者かによって、すでに長い時をかけて、殺されてきたのだ」
と。

詩とはなにか。それは現実の社会で口に出せば、
全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、
かくという行為で口に出すことである。(吉本隆明)


ならば「詩が死んだ」社会とは、いったいどんな社会なのか。
それは詩とともに、詩の命である、真の言葉(ほんとのこと)が殺され、
詩の本来の精神である、自由の精神が失われた社会を意味する。
そして詩を殺し、言葉を殺した者たちが、いま真実に代わって
あたり構わずまき散らすのは、分別のない、赤裸々な「本音」である。

それは時に凶器に等しく、その重大な結果には、だれも責任を負わず、
人の数だけ真実はあると、無数の言い訳を並べ、臆面もなく開き直る。
森友事件でも同じだ。今必要なのは、国民が納得できればすむような、
丁寧な説明ではない。一言ずつ正確に、重たい真実を述べることだ。 

古代ギリシャにおいて、自由という単語には二通りの表現があった。
まずひとつは身体の自由である「エレウテリア」。
そしてもうひとつは、思想・表現の自由である「パルレシア」。
樽の中に住んだ等の奇行で知られる哲学者のディオゲネスは、
「世の中で最も素晴らしいものはなにか」と問われ、
「それはパルレシアだ」と答えたという。
パルレシア。何についても率直に、真実を語ること。
脅迫をも、迫害をも、殺されることをも恐れず、自由に語ること。
(河津聖恵『パルレシア 震災以後、詩とは何か』より)


病んだ社会の再生は、なによりもまず、
言葉の甦りでなければならない。
言葉に「蘇生の血を通わせる」ことが、不可欠なのだ。

その「蘇生の血」こそが、「パルレシア」ではないのか。
河津氏は、詩=比喩の力によって、それを試みることを述べるが、
私は、さらに広く一般の言論や、人々の会話や文章にも求めたい。

何をも怖れず、真実を(本音ではない)、率直に語ること。
民主主義社会に不可欠な、伝統に裏打ちされた自由の精神。
暗夜の灯台のような、闇の底から放たれる言葉が持つ真実の光。

真実の言葉には、語彙や表現力は必要ないが、しかし
水滴で岩を穿つような、息長い忍耐と覚悟がなければなるまい。
真実とは、癒しや慰めではない。仮借なく、耳にも心にも痛いものだ。
顔の醜さを鏡のせいにして叩き割るような者は、真実には程遠い。

言葉は、語る者だけでなく聞く者がいてこそ、はじめて成り立つ。
命がけで真実を訴える声を無視したり、嫌悪し、排斥することも、
真実の抹殺に、積極的に加担する行為に他ならない。
語る者、聞き入れる者、伝える者がいてこそ、真実は生きるのだ。

「パルレシア」を怖れるのはだれであり、また、どんな社会であろうか。
日本人は、そんな社会を望むのか、それとも変えてゆきたいのか。

「私には何もできませんが」と無能を装い、逃げてはならないと思う。
わたしたちの一人一人は、どんなに弱くて小さな存在であっても、
だれもが、歴史と言葉を受け継ぎながら、子々孫々に伝えてゆく、
「パルレシア」の重みを担いながら生きる人間なのだから。


つばきとキャンドル


別窓 | 日記・雑感 | コメント:1
真冬を越えて、春がめぐり
2018-03-05 Mon 11:30

この冬の寒さは、温暖な西日本でも尋常ではなかった。
氷点下の冷え込みが長く続き、立春を過ぎても足元に霜柱が立つ。
日中でも2~3℃あれば、「今日は温かいね」と会話するほどだった。
備前の甕の底では、吹き溜まった楓や欅、杉や松の落葉が凍てつき、
奇妙な氷のオブジェにされて、いく日も封じ込められていた。

シベリアから白頭山に衝突し、荒れた海を渡って上陸した風は、
北国を積雪に閉ざしたあと、澄んだ空っ風となり、肌を突き刺す。
軽やかに宙を舞う粉雪が、乾いた地面を覆うことはなかったが、
大きな被害こそ免れたものの、厳冬と呼ぶにふさわしい季節であった。
日本以外の全世界が、南北の融和を歓迎し見守った平昌五輪は、
酷薄さのなかで、金銀銅も他人事のように通り過ぎていった。

真冬の庭の楽しみは、やはり赤い実と赤い花だ。
いや、朱い実とか、紅い花というべきか。
どれも目に鮮やかで、心まで暖めてくれる。

朱い実は、南天と万両が今年もたくさん玉をつけた。
年が明けると、毎日のように野鳥(たいていヒヨドリ)が飛来し、
用心深く辺りを伺いながら、すばしこく啄んでは飛び去ってゆく。
そこには懸命に生きようとするものと、生きる糧を与えるものと、
その営みを愛でたり、腹を立てたりする、人間の卑小さがある。
朱い実は1月中にはほとんど食べられ、枝ばかりになるのだが、
今年は、南天の実がすっかりなくなるまでに、2か月ほどかかり、
万両の実は、今もまだいくらか残っている。

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朱い実を失った南天と、わずかに残る万両

紅い花なら、山茶花と椿が冬の色には欠かせない。
暖かい年なら年末には咲き始めるが、今年はものみな凍えて、
固い蕾はいつまでも開かず、堪え切れずに咲いた花は責められて、
寒気にたちまち傷んでしまった。それでもようやく2月も下旬になると、
庭の山茶花は満開となり、藪椿も目を覚まし、次々に咲きはじめた。
ここにもまた、ヒヨドリが蜜をもとめてやってくる。

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山茶花と、傷んだ椿「あけぼの」

紅梅は、毎年1月中には蕾が綻ぶかと、いつも待ち遠しいのだが、
やはり半月ほど遅れて、一枝梅を見たのは2月中旬だった。

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庭の紅梅

思えば、これほど長く寒い冬の記憶は小学生のとき以来だ。
あの頃も毎朝、白い息を吐き、霜柱を踏みながら学校に通った。
そして何よりの楽しみは、家に帰って真っ先に食べるかき餅。
おばあちゃんが電熱器で焼いて、帰りを待っていてくれた。
かき餅をパリっとかじった瞬間、暴力教師に殴られる恐怖の授業も、
きれいに忘れてしまい、気持がさらりと更新できてしまうのだった。
子どもには、今日がどんなに辛くても、明日はいつでも新しかった。
(現代の子ども達は環境も違うので、当てはまらないと思います)

薄く切ったかき餅が乾燥するまで、3日~1週間ほどかかるが、
それを楽しみに、松風の唸りを聞きながら寝入るのが、寒の季節だった。
わが家では今も寒に入ると、かき餅とあられを手作りしているが、
この頃はお餅も機械でつき、焼くのは電子レンジのチンで済ませている。
あられならそれでもなかなか美味しいが、かき餅となるとどうしても
電子レンジでは仕上がりにむらができ、味もずいぶん物足りない。

寒さに凍える日々、無性にあの昔のかき餅が懐かしくなってきた。
だが電熱器など今は昔。何か代わりになるものはないかと探したら、
ちょうどいいものがあった。それは、茶道稽古用の置き炉である。
本式の炉は、畳の一部を正方形に切った囲炉裏で、炭で湯を沸かすが、
置き炉は電気を使う。内部は、ニクロム線を巡らせた電熱器仕様なので、
早速その上に焼き網を置き、薄く切った餅をのせて火を入れてみた。

しばらくすると、網の上で餅がいきなり膨らみ、身を捩って反り返る。
あわてて箸で裏返すが、うっかりするとあっという間に形が崩れたり、
真っ黒に焦げたり、火がついて燃えたりして、それこそ油断も隙もない。
要領を得てくると、裏表も四隅にもきれいに火を通せるようになり、
美味しそうな焦げ目がついた、あの頃のかき餅にだんだん近づいてくる。
もし自分に子どもや孫がいたなら、こうして作ってやったのだろうか。
他愛もないことを考えながら、何かに納得するまで熱心に焼いてみた。
電気の囲炉裏でも、冬の夜の沈思黙考には役に立つようだ。

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福寿草と、雪割草

年を跨いで、話題の映画の最新作に大騒ぎしていたころ、
ブログで知り合った篤実な女性が、深刻な病状と全力で闘っていた。
2度の手術を乗り越えたが、再び入院し重篤な状態が続いた。

彼女のブログは、その虚弱体質や闘病生活が信じられないほど
元気で明るい。毒舌だと本人は謙遜されるが、とんでもない、
天地を大掃除するような清冽さと、あきらめない青春の気に溢れ、
読む者の心を洗ってくれる。持病だけでなく、時代の病にも向き合い、
勇敢に闘い続ける姿勢は頼もしく、いつも学ばせてもらっている。
数日前、彼女が危機的な状況から脱して、順調に回復しながら、
近く退院することになったという、お身内の方からのご報告を読んで、
信じて待っていた私も一安心で、ようやく春がおとずれた想いだ。
彼女の抱く夢がかなうように、一緒に年を重ねてゆきたいと強く願った。

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庭の白梅

天のご機嫌は計り知れないが、1月は往ぬ、2月は逃げるのとおり、
霜と氷と寒空も、過ぎ去るときには、幻のように消えていった。
中国地方では昨年より8日も早く、2月14日に「春一番」がわたった。
寒の戻りはあるにしても、もやもやした暖かさが、心を騒がせる。
冬の終わりの、一抹の淋しさを残して、南の風が背中をゆるく押す。

蠟梅のあとには、金縷梅、山茱萸など、黄金の花が続いて春を告げ、
足元には、福寿草や雪割草、寒芍薬や寒菖蒲、立坪菫が姿をあらわし、
寒さに怯えていた水仙も、眠りから覚め、清楚な香りを解き放つ。

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寒芍薬と、日本水仙  

3月の陽射しはすっかり春で、気温も上がり、道行く人の表情も和らぐ。
春宵の松の梢には、熊座の長柄星が、すらっと淡い影を落としている。
今日の雨は、昨夜天の柄杓がこぼした、春野をうるおす恵みの雨だ。
やがて菜の花が、わが家の畑にも咲き乱れ、蝶や鳥を呼ぶだろう。

そして今年もまた、あの日がめぐってくる。
7年目になる、3.11。
あの春の、終わらない滅びと喪失の記憶。
それはすでに無益な繰り言か、記念日に過ぎないのか。
いや、不吉な、なにかの予行演習だったのか・・・

わたしの心にはいま、石牟礼道子宋神道という、
ふたりの女性の生涯と、語りと、世に置いていったものが、
生傷として、債務として、道標として、至宝として、
深淵に浮かぶ花のように、忽然とあらわれ、重く圧し掛かる。

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ようやく咲いた藪椿の一輪
石牟礼道子は、水俣の不知火海を
「椿の海」と呼んだ。 




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新年のはじまりに<2018>
2018-01-01 Mon 23:00

年越しから新年に流れる時間は、なんとも味わい深いです。
おなじように日を跨いだだけで、気持まで一新される不思議。
そして元旦は、日本人が年に一度だけ、
神妙で敬虔な気持になれる日ではないでしょうか。

ともあれ、2018年がはじまりました。

美観地区
新春の大原美術館

迷いながらも、昨年7月に再出発した拙ブログですが、
多くのみなさまに、訪問と応援をいただき感謝いたします。
内外の情勢はますます厳しさを増していますが、
今年も、どうぞよろしくお願いたします。


わたしが夢多き子供のころ、
ワクワクしながら思い描いていた21世紀は、
これほどまでに混乱した、野蛮で、
邪悪な世界ではありませんでした。

もはや人類史を数世紀も巻き戻した、中世にも似た様相の中で、
いま、死にもの狂いで鬩(せめ)ぎ合っているのが、

「光」と、「光をおそれる無知」

「善」と、「善に対する嫉妬」

「智慧」と、「智慧におびえる快楽」

「真理」と、「真理をこばむ妄執」



そしてついに、世界はこれまでにない非常事態に直面し、
核戦争の危機が、冷戦以降でもっとも高まっています。
そんな実感を覚えることもなく、日々を過ごしているとしたら、
どれほど不幸で、また無責任なことでしょうか。
口にするのも恥ずかしい、年末年始の大手メディアの、
国民をどこまでも侮辱した、なんという醜態でしょうか。

今朝は7時過ぎに、近くの空き地で、初日の出を拝しました。
よく晴れた、おだやかな元旦を過ごせました。
街を歩けば、毎年この時季に咲く「ヒマラヤザクラ」が、
すでに葉桜になっていましたが、寒空にりりしく映えていました。


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しかし、この一年を終えるとき、どんなことを振り返るのでしょうか。
来年、この真冬の桜の下に立つときに、どんな気持でしょうか。
それを思うと、これまでにない不安を感じないではいられません。

なによりも懸念される憲法改悪と、核戦争ともなりうる、
第2次朝鮮戦争の勃発という、最大の危機が回避できるよう、
年始の祈りをこめて、本年の決意としたいと思います。


今日1月1日は、カトリック教会のカレンダーでは
「主の降誕8日目」に当たり、
「神の母聖マリア」「世界平和の日」とされています。
そこで初詣ならぬ、新年のミサに出席しました。


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(聖書写本挿絵より スペイン 1263年ごろ)


毎年生まれて来る子どもたちが、いのちである前に、
単純なグラフ上の数値として、増えた減ったと批評され、
母親が人格である前に、「子を産む機械」でしかないような、
人間性が否定される社会では、若者たちが結婚し、家庭を築き、
子どもを産み育てる希望や目的は、とうてい見いだせません。

キリストを産んだマリアも、養い育てた夫のヨセフも、
紀元前のユダヤに生きた、貧しい家庭の若い夫婦ですが、
たとえ自分たちの息子を、拝みに来る者がいたとしても、
思い上がったりせず、イエスを特別扱いしたりもせず、
ユダヤ人の伝統と日々の生業を通して、慎ましい生活のなかで、
大勢の兄弟姉妹と一緒に、希望と信頼をもって育てました。

しかし21世紀の日本において、2000年前のヨセフ一家ほどの、
生活力も、文化的素養も、相互扶助さえも奪われて孤立し、
社会への信頼も、将来への希望も持てない状況に棄てられたまま、
その日その日を生き延びることだけが精一杯という人々が、
どれほど多いかと思うと、やりきれず、おそろしい気持になります。

お正月の団らんでも、中韓朝への罵倒や戦争を煽る暴論を、
否応なくに聞かされる人々の苦しみにも、心を痛めます。
家族が集う場所にこそ、平和への意思が生まれるべきなのに、
なぜこの国では、その反対の方向に盛り上がるのでしょうか?

今日では、家族の形態も多様多彩に変化しましたが、
社会の基礎であることは変わらないと思います。
民主主義は、家族という成員間の平等な関係からはじまります。
平和とは、ただ戦争やテロのない状態を指すだけではなく、
まず家庭から、家族に対するDVや虐待、差別や横暴を、
根絶しなければ、とても実現は不可能だと思います。

今年は、改憲や戦争という、より切迫したテーマとともに、
世界平和の基礎である、家族の尊厳と可能性についても、
保守的な義務感ではなく、普遍的な人間観に基づいて、
新しい、創造的なあり方を再認識したいと思います。


超月2
元旦の夜の出現した、明るい「超月」。

今年も、地球上のすべての人々の歩むべき、人の道を照らせ。


別窓 | 日記・雑感 | コメント:8
Christmas おお、大いなる神秘 
2017-12-25 Mon 01:08

クリスマスイブ。主の降誕。

カトリック教会の、夜半のミサから帰宅した。
星なき夜にも、身に凍みる寒気にも、心温まる想い。

天のいと高きところには神に栄光、
地にはすべての男女と生き物に平和あれ!

この静かな夜を、全世界が歓び、祝福する。
見棄てられ、追われ、寄る辺もなき若い母親が、
馬小屋で産んだ幼子に、思いを巡らせる。
温かい家庭の炉辺でも、冷たく孤独な路傍でも・・・
恵まれた者も、打ちひしがれた者も・・・神を心に宿す。

冬の真底、暗闇の深奥から立ち上がる力。
聖夜の、大いなる神秘と奇跡。
万象を包む闇と、心を満たす光、 
敬虔な息づかいと、切実な祈り。
神の愛の充溢を、いかに分かちあえるだろうか・・・

ふと目にした、詩人・河津聖恵のツイートが、
その想いを、簡潔に、純粋に、情感豊かに、
あますところなく伝えていた。


私はキリスト教の信者ではないが、
今夜どこからともなくみちる、聖なる空気がたしかにある。
キリストという存在が、
なぜこれほど長く、多くの人の心を励ましてきたのか。
今この闇の深さによってこそ、
みえてくるものがあるように感じる。

聖なる空気がみちる、という感じ。
それは牛の乳は一点から出るが、
それを作り出しているのは身体全体だという
ヴェイユの箴言を思い出させる。
世界という身体全体が、今夜。

信徒ではなくても私は、イブには格別の深さを感じる。
母親が熱心な信徒だったので、小学生の頃通わせられていた
日曜学校の仲間と、聖夜の劇をしたこともあった。
マリアの役は拒んで笛吹きになったが、
あの頃の闇は、ずっと心に残っている。

その闇が闇のまま、深まっている気もする。



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荒天のクリスマスとなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
みなさまがたも、ご家族や友人、愛犬愛猫とともに、
思い思いの、温かい聖夜を過ごされたご様子で、
ブログ記事を読ませていただきながら嬉しく思いました。

明日にもなれば、日本の街角では、
ツリーもサンタも一斉に退場させられ、
慌ただしく、お正月の準備がはじまりますが、
天体の運行に従い、太陽暦の新たな一巡のはじまりを祝う
晴れやかな気持と、豊かな分かち合いも大切にしたいですね。

今日の世界情勢を思えば、暗澹たる気持になりますが、
祈り、かつ自らも行動する、確たる信仰を持ちたいです。


クリスマスの深夜に、
カトリック教会の典礼で捧げられる聖歌。
「おお、大いなる神秘(マグヌム・ミステリウム)」


“O Magnum Mysterium”





O magnum mysterium,
et admirabile sacamentum,
ut animalia viderent dominum natum,
iacentem in praesepio.
O beata Virgo, cujus riscera meruerunt
portare Dominum Jesum christum.
Alleluia!

おお、大いなる神秘、
奇《くす》しき秘儀。
家畜らが、生まれし主を見る、
飼い葉桶に横たわる、主をば見る。
おお祝されしマリア、汝が胎は尊きものなりき、
主イエス・キリストを宿したるほどに。
アレルヤ! (訳詞:那須 輝彦)



2千年前のイエス・キリストのご誕生は、
世界中の厳しい環境のなかで、安心して生まれて来る場所がない、
子どもたちの状況を思い起こさせます。

しかし今でも、
「安心して産むことができる環境がない母親」
「生まれて来る場所がない赤ちゃん」が、日本にはたくさんいます。
残念ながら、これが依然として、日本のなかにある現実です。

今夜、主の降誕をともに喜び祝いながら、
わたしたちもキリストの愛によって、
すべての命が温かく迎えられる社会を築いてゆく決意を、
新たにしてゆくべきではないでしょうか。
(大塚了平 福岡教区司祭)



イエス・キリストだけではない。
すべて生まれてくる子どもたちは、
国も、人種も、宗教も、身分も、出自も関係なく、
神に愛され、祝福された、尊い命の授かりもの。
「大いなる神秘」とは、受胎と妊娠、出産そのもので、
命の尊厳こそ、クリスマス本来の意義だと思います。

だからこそ、この地上の、全てのいのちの始まりに、
暴力と強要ではなく、神の祝福に与る、愛と慈しみがあふれ、
すべての家庭が、思いやりと健やかさに満たされんことを。

授けられた子供の出自や性別、障害の有無などを理由に、
誤った価値観で、いのちの取捨選別がなされることなく、
世の悲惨な環境のなかで、愛されるべき命が奪われることなく、
何よりも守られるべき、母親と子どもたちが大切にされ、
だれもが幸せに生きてゆける社会を創るために、
これからも怖れず怯まず、前に踏み出したいです。


冬の天上に輝くクリスマスツリー。

無題
クリスマスツリー星団(NGC2264)


(クリスマス共同祈願より)
み旨に従い、救い主の誕生のために仕えたマリアのように、
わたしたちも、祈りと奉仕をもって、
神の計画に、貢献することができますように。

争いと分裂に苦しむ世界のために祈ります。
キリストの光が人々の心を照らし、
ともに平和への道を歩むことができますように。

貧困や虐待の問題に立ち向かい、社会のつながりのなかで、
未来への希望である子どもたちのいのちを、
大切に育ててゆくことができますように。
混沌としたの世の中で、確かなものを求めている人々の心に、
主の降誕の福音が響きわたり、希望と安らぎが訪れますように。


Gloria in excelsis Deo  
Et in terra pax hominibus bonae voluntatis.


別窓 | 祈りと信仰 | コメント:3
神を待ち望む季節「目を覚ましていなさい」
2017-12-03 Sun 23:18

いま、冬の夜空には、
今年もっとも大きく明るいと言われる
美しい満月が輝いていることでしょう。
その乳白の光の真下で、冬の王者オリオン座さえも、
遠ざかり、ぼんやりと影薄く、霞んでみえることでしょう。

クリスマスの季節ですね。

今日12月3日の日曜日は、待降節第1主日でした。

カトリック教会では、クリスマスのことを、
(キリストの)降誕祭と呼んでいますが、
クリスマスを準備する期間を、「待降節(アドヴェント)」と呼び、
4週前の日曜日から始まります。(「主日」とは日曜日のこと)
教会では、待降節から新しい典礼暦の一巡がはじまります。

待降節の期間には、アドヴェントリースとも呼ばれる、
常緑樹のリースに添えられた4つのキャンドルが飾られ、
1週ごとに、ひとつずつ灯りを点してゆき、
キャンドルの灯りが4つそろうと、クリスマスを迎えます。
信者ではなくても、キリスト教系の学校などに通われて、
お祝いされた行事を、思い出される方もおられるでしょう。

日本での一般的なクリスマスは、
年末の街角を彩る、華やかな雰囲気として定着していますが、
サンタクロースやツリーやキャロルのイメージは、
多分にアメリカの商業主義から入ってきたものなので、
ここではふつうに教会で祝われる、慎ましくも心豊かな、    
本来的なクリスマスをご紹介したいと思います。

待降節には、ふたつの意味があり、
ひとつはもちろん、クリスマスの準備期間として、
救い主を預言した、旧約聖書の言葉に耳を傾けながら、
神の計画によるキリストの降誕を追体験するものですが、
またそれを通して、世の終わりにおけるキリストの来臨、
神との新たな出会いと、永遠のいのちに心を向けながら、
悔い改めと浄化、希望と喜びをもって待ち望みます。

キャンドルの色と意味するものは、それぞれ、
第1主日が濃紫(償いと浄化)、第2の主日は薄紫(希望)、
第3主日が桃色(喜び)、第4主日は白(世の闇を照らす救いの光)で、
このあたりは、信仰に関心がなければ、特にどうでもいいのですが、
この国では、いつまでも少数者でありつづけるクリスチャンとしては、
さらに慎みと遜りの思いをもって、過ごしたいと思います。

パレストリーナの神秘的な聖歌をどうぞ。



Gloria in excelsis Deo  
Et in terra pax hominibus bonae voluntatis.
いと高きところには栄光、神にあれ。
地には平和、主の悦び給ふ人にあれ。


<待降節第1主日 福音朗読>

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。

気をつけて、目を覚ましていなさい。
その時がいつなのか、
あなたがたには分からないからである。

 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、
 僕(しもべ)たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、
 門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。

だから、目を覚ましていなさい。

 いつ家の主人が帰って来るのか、
 夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、
 あなたがたには分からないからである。

 主人が突然帰って来て、
 あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。

あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。
 

目を覚ましていなさい 

(マルコによる福音書13章33~37節)

キリスト教信仰や思想信条には関係なく、
つね日ごろから、目を覚まして過ごすことは、
生きる姿勢としても、大切なことだと思います。
そして、ここで言われる「主人(夫ではない)の帰宅」とは、
人生における重大で、決定的な出来事の不意打ちです。

原発事故も、それに続く大規模な政治的反動も、
今日が来たように明日も来ると、誰もが信じていたところに、
ある日突然、日常を引き裂いて、容赦なく襲ってきました。
心ある人々は、たびたび警告や批判を繰り返してきたのに、
私たちは耳を傾けるよりも、根拠のない楽観を優先しました。
そのうえに、悔い改めなき希望を重ねても虚しいだけです。
それは、次の深刻な事態を招く危険にも繋がります。

キリストは、マルコ福音書のなかで、
「目を覚ましていなさい」と呼びかける前に、
「人に惑わされないようにしなさい」とも警告しています。

生き方や価値観の多様性や、異なる意見や文化への寛容が、
その内容までも深く、厳しい吟味と淘汰を経ることなく、
新しいお題目として喧伝されるようになりましたが、
それと引き換えに、個人の尊厳や命の重さ、真理や正義までもが、
限りなく相対化され、矮小化され、軽んじられるようにもなりました。
より小さな人々は、都合よく分断され、寄る辺もない孤独のなかで、
世の危険な動きに巻き込まれながら、抵抗するすべもありません。

いろんな人が、いろんな巷説や意見を唱えますが、
神が人間に与えた、掛けがえのない個性の豊かさと、
人々が互いを生かし、尊重し、認めあう寛容さは、
すすんで譲ることができるものと、決して譲ってはならないものが、
明らかにされ、守られていなければ、成り立つことができません。

なにものにも目を曇らされることなく、おのれにも甘えることなく、
国や民族、宗教も、時代をも超えて、人類が求め続けてきた
真理と善、正義や平和いう、普遍的な価値や理想を尊び、
現実の困難を前にしても、その実現を悲観することのないように、
神とともに、目を覚まして歩んでゆきたいです。

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NGC 7822: Stars and Dust Pillars in Infrared
Image Credit: WISE, IRSA, NASA; Processing & Copyright : Francesco Antonucci


別窓 | 祈りと信仰 | コメント:2
市民と野党の共闘を勝利へ! 比例は共産党へ!   
2017-10-21 Sat 22:28

超大型の台風が、日本列島をめがけて近づいている。

なぜ!よりによって大切な選挙の日に・・・と思ってしまう。
荒天はどうしても、投票率と選挙結果に、影響を与えてしまう。
まして巨大台風だ。選挙どころではない人もいるだろう。
警報が発令され、厳重警戒しなければならない地域もあるはずだ。
なによりも弱者には、あまりに不公平である。

災害列島の日本。政府には、こういう場合の妙案はないのか。
自然現象というものは、人知の予測をはるかに超えるが、
嵐のなかを外出すれば、人命の危険さえ考えられる。
交通機関は止まったり、学校や会社が休みになる場合には、
緊急事態として、投票日も延期するなどの配慮はできないものか。

天の試練は容赦ないな。
だが、落ち着いて最善を尽くそう。


さて、今日で衆院の選挙戦も、いよいよマイク納めだ。
雨のなか、駅の方角からは、最後のお願いが響いてきた。
夜鳴き蕎麦が、その声をかき消しながら、通り過ぎて行った。
明日は投開票日。どんな展開になるのか、胸苦しい思いがする。

今夜は、たったひとつの思いだけ書き綴ってみたい。

もしよろしければ、
いちばん最後の動画だけでもご覧ください。


安倍政権による、憲法改悪を阻止したい。
だから、「比例は共産党」へ
いま願うのはこれだけだ。

報道によれば、共産党は、いずれも苦戦しているようだ。
公示前、共産党は21議席を占めていたが、
それを大きく下回ることになるかもしれないという。
改憲や安保法制に反対するリベラル票が、共産党よりも、
立憲民主党のほうに、集中しているからかもしれない。

立憲民主党の健闘は、大いに意義のあることだし、応援している。
だがここで、共産党が減速するのは、あまりにも惜しいと思う。

衆議院での議案提出には、提案者と20人以上の賛成が必要だ。
共産党の21議席は、貴重な意味を持ち、守り抜かなければならない。
「なんでも反対」どころか、現実に政治を動かす勢力となるからだ。
共産も立憲も、それぞれの持ち味と経験を生かして、安倍政権に挑み、
改憲を阻止する世論の両輪として、大活躍してもらいたい。

共産党は、安倍政権に対する、市民と野党の共闘の要でもある。

「安倍一強」に対して、野党がバラバラではとても勝ち目はない。
反目をやめて、ひとつの目標に向けて、いまこそ野党が協力し、
なにより選挙で勝つことのできる、確実な受け皿をつくってほしい、
安倍政治に、煮え湯を飲まされ続けた国民の、渾身の願いだった。
市民と野党の共闘は、そこから生まれた大きなうねりだ。

「共産党アレルギー」と呼ばれる偏見は、まだまだ根強い。
いまだ冷戦思考が抜けないのか、共産党と聞くだけで恐怖し、
旧ソ連や北朝鮮の全体主義や、ポルポトの大虐殺を挙げながら、
反社会勢力のように見なすのだが、物事をよく見てほしい。

21世紀の日本国で、暴力革命や共産党一党独裁が可能だろうか?
むかしは盛んに反対を唱えていた。天皇制や日米安保に対しても、
いまでは柔軟な姿勢に転換し、現実的な提案をしている。
好き嫌いはあろうが、共産党への歪んだイメージは誤りだ。

それでもおもしろいのは、政治に絶体絶命の危機が迫ると、
国民の心理は、まるで盤石の城塞か避難所であるかのように、
共産党を求めて、一斉に駆け込んでくることである。

「困ったときの共産党だのみ」「票の雨宿り」とも言われるが、
2014年の衆院選で、一挙に議席を9⇒21議席まで伸ばしたのも、
その時、安倍政権に対する最後の砦が、共産党だけだったからだ。
東京都議会でも、共産党は野党としての存在感を増した。
歴史が古く、目標を高く掲げ、理論にも強く、首尾一貫ブレない主張。
表には出さないが、日本人は、じつは共産党を信頼しているのだ。

人に話を聞いてみると、こんなことを言われないだろうか。
「共産党がいちばん正しいことを言っている。でも・・・」
この「でも・・・」については、人それぞれに異なると思うが、
そこを、ぜひ乗り越えてほしいと願わずにはいられない。

野党共闘は、様々な形で模索されたが、立憲4党とよばれる
民進党、社民党、自由党、共産党が、選挙協力を行うことで、
昨年の参院選では、野党統一候補が、11の一人選挙区で勝利。
比例代表でも、野党4党で44の議席を獲得するなどの成果があった。

だが民進党の内部では、絶えず反共が、不協和音としてくすぶり、
ついに前原氏が、希望の党へ合流すること決め、共闘を放棄し、
自由党もこの流れに従ったときには、大変なショックだった。
とつぜん民意の受け皿を失ったからだ。棄てられた。悔しかった。
「枝野立て!」という悲痛な叫びが、草の根から沸き起こった。
立憲民主党は、こうした経緯と、絶大な市民の声を受けて作られた。

この動きに対して共産党は、野党で統一候補を立てるために、
全国289の選挙区のうち、67の選挙区で、共産党候補者を降ろし、
立憲民主党や社民党の候補を、全面的に支援することにした。
安倍政権に、改憲発議をゆるしてはならないという決意からだ。

改憲の発議には、衆議院(定数465)の、3分の2(310)以上の
賛成が必要だが、自民・公明・維新・希望などの改憲勢力が、
今回の選挙で、この議席数を上回れば、改憲は現実的なものとなる。

立憲民主党の候補者は79名。もし候補者全員が当選して、
これに社民党議員(2?)や、無所属議員を加えたとしても、
改憲の発議を阻止できる、3分の1の議席には到達しない。
そこで絶対に必要不可欠なのが、共産党議席の伸長である。


だからこそ、「比例は共産党」なのだ。

いまは、これしかないからだ。
劣勢をはね返し、これまでの勢力を維持し、さらに増やしたい。

忍耐を重ね、大きな犠牲を払いながら、共産党は古い殻を脱ぎ捨てた。
民衆との信頼を得て、野党共闘を繋ぎ留め、並々ならぬ決意と覚悟で、
まっしぐらに改憲と戦争に向かうこの国を、全力で守ろうとしている。

最後に、ひとつの動画を紹介したい。
東京12区で立候補した、共産党の池内さおり氏だ。





台風が接近します。
何よりもまず、身の安全を確保して、
投票所に向かってください。

よろしくお願いします。


別窓 | 政治 | コメント:9
立憲主義の回復のために ③底辺からの民主主義
2017-10-19 Thu 21:52

悪天候との闘いでもある衆院の選挙戦も、いよいよ終盤だ。

自民党の圧倒的優位は相変わらずだが、中盤を過ぎたころから、
立憲民主党への支持が、希望の党と拮抗、あるいは逆転している。
反自民の批判票が、希望ではなく、立憲民主に集まり始めたようだ。
無謀を極めた民進党の解体は、いずれ明暗を分けるだろうが、
希望の党の失速は、ますます自民との接近を意味するかもしれない。

だがいまは、一票の積み重ねに集中しよう。

マスコミは伝えようとしないが、枝野人気は大したものらしい。
行く先々に熱気があふれ、大勢が足を止めて、耳を傾ける。
枝野氏の語る、いまこの国が取り戻すべき、本来のあるべき姿が、
誰にでも分かりやすく、すんなり納得のいくものだからだろうか。
厳しい闘いであるにもかかわらず、焦燥や悲壮感ではなく、
不思議にも、懐かしさと安堵感がわいてくるらしい。

こういう、真っ当な言葉が聞きたかったんだよ。
それが、今までなかったんだよ。ずっと待っていたんだよ。


そんな胸の内が聞こえてくるかのようだ。

扇動や虚言はもうたくさんだ。自然な共感や連帯がほしい。
それは、あの東日本大震災と原発事故によって失われて以来、
日本人が疼くように求めていた、政治への信頼ではあるまいか。
強いリーダーが大風呂敷を広げる、理想についてゆくよりも、
民衆とともにあり、その声に押されて進む、自分たちの代弁者。
いま日本人が願うのは、そんな政治家ではないだろうか。

立憲民主党が目指すものは「まっとうな政治」。
そのなかで私が注目しているのは、「ボトムアップの民主主義」だ。

枝野氏は、いま政治にあるべき対立軸は、保守VS リベラルではなく、
「トップダウンvsボトムアップ」であると説明する。
これには、眼からウロコである。

トップダウンとは、上意下達。
お上の決定に国民が従うこと。

ボトムアップとは、底からの突き上げ。
草の根の民衆が主役になること。


権力やお金や情報をほぼ独占している、一握りの上層部のためではなく、
「国民の日常の暮らし」や「現場のリアルな声」に根差した政治だ。
一言でいえば、国民の暮らしの、根本的な立て直しである。

働けども働けども、暮らしが少しも楽にならないのは、
努力が足りないからではなく、政治に問題があるからだ。
圧倒的な格差が放置されたままでは、経済が停滞するだけでなく、
それ自体が人権侵害でもあり、民主主義の屋台骨まで壊してしまう。

選挙で国民の重視するものも、改憲や北朝鮮や安保法や原発よりは、
暮らしに直結する雇用や格差是正、年金や医療、社会保障である。

だからこそ安倍政権は、経済最優先を掲げ、国民の支持を得てきたが、
アベノミクスの成果として強調される、過去最高の企業収益やらGDP、
バブル期を超える有効求人倍率、増加する外国人旅行客などの数字を、
得意気に並べれば並べるほど、また、それらが事実であるほど、
庶民生活の実感とは、あまりにもかけ離れて、虚しくなるばかりだ。
そして消費増税は、今ほんとうに必要なことなのだろうか。

アベノミクスの唱える理論(トリクルダウン)では、
富裕層がより豊かになることで、そのお零れが貧困層にまで及び、
全体に活力が戻るそうだが、それ自体、人を馬鹿にした理屈だし、
実際にも失敗し、富めるものがますます富んでいるだけである。

経済とは本来、カネの出入りや使い道、暮らし向きだけを意味しない。
国民が求める景気回復も、単に金回りがよくなればいいのではなく、
モノがあふれ、お金持ちになることだけが、豊かさではない。
どうすればモノが売れるか、庶民がサイフの紐を緩めてくれるか、
そんな卑しい話ばかりしては、卑しい社会ができあがるだけだ。

残念だが安倍政権は、経済再生の期待を、一身に任されながらも、
その人間観は貧しく、人は人格を消された、数字でしかなかった。
景気回復が、生活のゆとりや質の向上として、実を結ばないなら、
富裕層をより優遇する、偏った政治だったと言われても仕方ない。
安倍政権への大きな期待は、的外れだったのではあるまいか。

国民生活の立て直しは、景気の向上や経済の再生だけではなく、
民主主義社会を支える国民に必要な、充分な教育と基本的な素養、
健康で文化的な生活の回復にも繋がり、分厚い中間層を生み出す。
それが社会を健全で信頼あるものにし、責任ある生産と消費を促す。

それには暮らしや子育て、将来や老後に、不安があってはならない。
若者が結婚できず、女性が子ども産めない社会に、未来があろうか。
高齢者や病人や障害者が、厄介者扱いされる社会でもいいのか。
まず国民生活全般の、公平で確実な下支えから始めてもらいたい。

有権者として大切なのは、漠然とした「日本人」であるよりも前に、
まずは生活者、納税者、消費者、労働者としての実感であり、
そこからのリアルな視点で、物事を観察し、批判し、
選挙を通して、その声を政治に届けることだと思う。

2009年 民主党 鳩山政権成立 投票率69.28%
2012年 自民党 安倍政権成立 投票率59.32%
2014年 自民党 安倍政権続投 投票率52.66% 

(総務省「国政選挙における投票率の推移」を参照)

総選挙の投票率を比べて見ながら、単純に言えることだが、
安倍自公政権が成立し、5年にも渡って維持されているのは、
鳩山民主党政権誕生のときに投票した、10~16%もの有権者が、
失望と不信と無関心のあまり、選挙を棄権していることが大きい。
投票率が下がると、組織票を持つ自民・公明などが、断然有利となる。

だが私は、棄権を続ける人達や、投票先を決めてない無党派層が、
かならずしも反安倍で、野党を支持しているわけではないので、
紋切り型の「選挙に行こう」という呼びかけはしていない。

結果次第では、国の根幹が大きく揺らぐ国家存亡の危機であっても、
自公維希へ投票したり、棄権や白票などもっての外という決めつけは、
相手からすれば、ずいぶん傲慢で失礼な態度ではないだろうか。
ここぞとばかりに、安倍政治の暗黒面や、恐怖の未来を強調しても、
たいていの人は冷めたものである。そのことは痛感している。
それよりもまず、なぜ自分はこの党に、この候補者に投票するのか、
いまの思いをじっくり話してみるほうが、強いメッセージになると思う。
選挙の時だけ人に近づいてくる、怪しげな人物では信用されない。

「釣った魚にエサはやらぬ」とばかりに、投票が終われば用済み。
自分の一票など、投票率嵩上げのために利用されただけなのか。
根強い政治不信から棄権している人が、それでも重たい腰をあげて、
選挙に行くのは、よほど危機感や、切実で必死な想いがあるからだ。
あとは知らん顔などされたら、たちまち大離反を招くのは当然だろう。

無党派層を動かすとは、山を動かすほど大変なことであり、
いざ動いた山は砂山のように脆く、すぐに崩されるかもれない。
砂山を盤石の岩にするまで、辛苦をともにする覚悟はあるのか。
有権者は見ていないようで見ている。その目はとても厳しい。
自らの言動に責任が問われるのは、もっともなことだ。

一票は数字ではなく、ひとりの魂とみなすべきだ。
だが現実には、その一票さえも投票できない人々がいる。
棄権どころか、棄てるにも、権利そのものを奪われた人々だ。

高齢で身体も不自由な上に、知人もなく、一人暮らしであったり、
病気や怪我で余命いくばくもなかったり、重い障害を抱えていたり、
DVから命を守るために身を隠していたり、虐待されていたり、
ブラック企業やブラックバイトで、休日もなく、長時間働かされたり、
介護で一瞬も目が離せなかったり、餓死寸前の母子家庭であったり、
貧困のため教育も受けられず、選挙が何かさえも知らなかったり、
いじめや引きこもり、鬱症状のため家から一歩も出られなかったり、
人間の生活どころか、今日明日の命を維持するだけで精一杯な、
ギリギリの生存条件で、日々を生き延びている人々が大勢いるのだ。

安倍政権が誇る成功例の、きらびやかな数字の羅列にも、
野党が望む、投票率の嵩上げにも、何の役にも立たない、
参政権などあれどもなきがごとき、理不尽な状況に追い込まれ、
存在そのものが、最初から見えなくさせられている、
この国が事実上、見棄てた人々は、いったいどうなるのか。

枝野氏の訴える、「ボトムアップ・デモクラシー」は、
まさに、これら底辺の人々のためのものでなければ意味がない。
もちろん一朝一夕に、実現できるものではないのだが、
選挙が終われば、そんな標語さえも忘れられるようでは困る。

みずからの言葉に背き、みずからを冒瀆するな。

立憲民主党という、いま有権者に与えられた、千載一遇のチャンスを、
国民が息長く、根気強く支え、育ててゆけるかどうか、
それが、この国の未来を左右すると言っても、過言ではないだろう。


では景気づけに・・・ John Williams “March of The Resistance”



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立憲主義を取り戻すために ②ほどよく豪華絢爛に
2017-10-13 Fri 13:35

10月10日に公示された衆議院選挙。
民進党の分裂と再編が、さまざまな期待や憶測を生んだが、
今回も自民党が、300議席を超える圧勝の勢いを見せている。

共同通信社は、第48回衆院選について10、11の両日、
全国の有権者約11万8900人を対象に電話世論調査を実施し、
公示直後の序盤情勢を探った。

自民党は小選挙区、比例代表で優位に立ち、
公明党と合わせた与党で300議席超をうかがう。

希望の党は60議席前後で伸び悩んでいる。
立憲民主党は公示前から倍増の30議席台も視野。
共産党は議席減、日本維新の会は微増にとどまりそうだ。
投票先未定は小選挙区で54.4%に上り、
22日の投開票に向けて情勢が変わる可能性がある。

(毎日新聞 2017年10月12日より。元記事>こちら

12日の朝刊を開いた途端、朝から気が滅入った方も多いだろう。

あ~またか。いつもとおなじように、総選挙の投票が締め切られた
10月22日の午後8:00の直後、Eテレ以外のテレビ各局が一斉に、
自民圧勝・野党瞬殺の報道を、全国津々浦々にまで流すんだろうなあと。
ほくそ笑む人、うなだれる人、どうでもいい人、それぞれだろうが、
大部分の国民は、おもしろくもねえ、というのが本音だろう。

いつだったか、一貫した右派で自民支持の知人が、圧勝予測を見て、
不満気に顔を曇らせながら、おもしろくねえよとつぶやいていたが、
マスコミの追風で勝利したのでは、いくら与党でも不安になるようだ。
こんな報道には、立場を問わず、誰もが脱力させられて当然だろう。

前回の衆院選(2014年12月)でも、マスコミは競うように、
世論調査に基づいて、自民圧勝の議席予測を発表したが、
その効果は抜群で、投票率は過去最低の52・66%を記録。
約半数の有権者が、棄権するという結果を招いた。

各党が独自の調査で、情勢分析を重ねるのは問題もないだろうが、
大手マスコミが一方的な情報を流すことは、著しく公平性を欠いた
世論誘導にも繋がりかねない、無思慮で無責任な報道であると思う。
選挙の主役はマスコミではない。主権者である国民である。

多くの国民が、参政権の行使に消極的になってっしまうのは、
選挙結果に、ほとんど民意が反映されないからに尽きる。


結果はもう分かっている。選挙に行っても何も変わらない。
どうせ死票になるだけ。行くだけ無駄で疲れるのはイヤ。
そう考えるのは決して間違いではなく、むしろ本質的な問いである。
遠くまで出向き、人の名前を書いて箱に入れ、ゴミに出されたのでは、
どうしようもなく虚しく、馬鹿馬鹿しいと思うのはもっともだ。

では、なぜ国民の一票は、こんな酷い扱いを受けるのだろうか。
そこには、得票数がそのまま議席数に繋がるわけではない、
小選挙区制という、衆議院の選挙制度に根本原因があるからだ。

小選挙区制は、ひとつの選挙区から一人しか当選できない仕組みだ。
有権者の意思は、どの党、どの候補を選ぶかによって示されるが、
小選挙区では一票でも多い候補者が、一人勝ちするので、
他の候補を選んだ民意は生かされず、大量の死票が発生してしまう。

前回の衆院選では、小選挙区で落選した候補に投じられた「死票」は
2540万票にも上り、それは全体の約半数、48%にも達している。
(中選挙区制度では、複数の候補が当選できるので死票は少ない)

こうした得票数と議席数の乖離は、選挙のたびに指摘されるが、
前回の衆院選で自民党の得票率は、小選挙区では48%止まりで、
過半数にも満たなかったが、議席占有率は76%にも達している。
あるいは全有権者の中での得票割合を示す、「絶対得票率」を見ると、
自民党は比例代表で16.99%、小選挙区でも24.49%に過ぎない。
これでも「自民圧勝」になるのは、選挙制度の「マジック」に加えて、
有権者の半数という、大量の棄権があったからにほかならない。

だからこそ選挙に行くと、私たちは2枚の投票用紙をわたされる。
これは、小選挙区制度の様々なデメリットを補うために、
比例代表制という、得票数に応じて各党の議席数が決まる制度が
あわせて運用されているからだ。(小選挙区比例代表並立制)
選挙区で落選した候補を、比例で復活させることには疑問もあるが、
死票も少なく、得票数が議席に繋がるのは、比例代表のほうである。

小選挙区制が悪いと、愚痴ってみても仕方がない。
とにかく選挙に行き、どこかに投票しなければ、何も動かないのだ。


小選挙区制が目指したものは、政権交代可能な2大政党制だったが、
それは少数野党と、そこに集まる民意の切り捨てでもあった。
いまの若い人には、かつて土井たか子率いた社会党の圧倒的な強さや、
衆院選で136議席も獲得した過去などは、すでに伝説の類だろうが、
それが今の、わずか2議席の社民党へと転落したのが、いい見本である。
かつて革新と呼ばれ、いまはリベラルと自称する有権者の多くは、
選択肢を奪われ、寄り合い所帯の民主党に一票を託す他なかった。
だがこの度の民進党の分裂により、情勢は一挙に様変わりした。

小選挙区制では、ボヤボヤしていると、オセロゲームのように
たちまち形勢が大逆転するなど、ダイナミックな展開もありうるし、
投票率が高ければ、野党が優位となるので、政権交代も起こりうる。
だから森元首相のように、「無党派層は寝ていてほしい」というのが、
与党にある者の本音だろうし、反対に劣勢にある有権者たちは、
一票の力を結集すべく、「選挙に行こう」と声の限り呼び掛ける。

だが有権者に刷り込まれてしまった、最も厄介な思い込みは、
「選挙に勝って政権を奪わなければ、なんの意味もない」
という、勝ち負けにこだわる、強烈な意識ではないだろうか。
この意識に捕らわれている限り、投票率は伸びないと思うのだ。

ある方がネットで呼び掛けておられた言葉が印象的だった。

「どこが政権を取っても、
 数の力で強行採決されないような、
 バランスのよい議席配分にすることが
 もっとも大事」


全国ほとんどの選挙区が、自民党色に染まるのではなく、
(希望)や(公明)の他にも、(立憲)や(共産)が、
豪華絢爛に散りばめられているほうが、よほど健全ではないか。

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それでは「決められない」と言うが、「決められない」のは、
筋道を通した議論や納得のできる説明、地道な説得や交渉を
最初からしようしないからであり、よりよい結論を導くよりも、
数の力で強行突破するようでは、真っ当な国会とは言えない。
国政とは決して、与党のやりたい放題にしていいものではない。

国民は国会が、健全で有意義な、言論の府であることを望んでいる。
与党の独壇場ではなく、「決められる」か「決められない」かでもなく、
国民の代表が、何をどのように意思決定するかが、最も問われるのだ。
理を尽くした議論、責任ある根拠の説明、異論や批判も聞こえる耳、
綿密で根気強いすり合わせ、国民への情報公開、憲法の尊重と順守、
軽んじられ、踏みにじられ、失われたものを、取り戻したいのである。

国民の多様な声を、政治に生かすには、野党勢力を伸ばすしかない。
小選挙区では、立憲民主と社民の候補者を絶対に当選させること。
比例代表では、共産票を飛躍的に伸長させることが、どうしても必要だ。


じつはさきほど突然、世論調査の電話が掛かってきたのだが、
もちろん、小選挙区は共産党候補、比例も共産党へ投票すると、
しっかり答えておいた。私の地元にはいつも、
自民と希望、共産の3名の候補がいる。
これまでは一貫して、衆院選は民進(=民主)に投じてきたが、
彼が希望に鞍替えしたからには、もう支持することはできない。
小選挙区は死票を覚悟する。だが比例は議席に届くと信じる。
これでいいと思う。

一議席でも、一票でも上乗せしよう。


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立憲主義を取り戻すために ①安倍政治
2017-10-06 Fri 18:52

今回は、衆院選挙について、思うところを書かせていただきます。

2012年12月、安倍氏が日本国の首相として、不死鳥のごとく復活した。
東日本大震災と史上最大の原発事故という、
かつてない国難を経験した国民が選んだのは、安倍自公政権だった。
以来5年近くにわたり、強力なリーダーシップで「安倍一強」を維持し、
石橋を叩いて渡るように、選挙による民意を慎重に確かめながら、
安倍氏は最大目標である改憲を目前に、着実な歩みを進めている。

森友・加計問題、自衛隊日報隠蔽疑惑による稲田防衛相辞任などで、
内閣の支持率は急落したが、安倍首相は8月の内閣改造を経て、
民進党代表に反共の前原氏が選ばれ、野党共闘に暗雲が差し、
宇宙空間のミサイルに、国民が戦中よろしく怯えるのをいいことに、
9月28日臨時国会の冒頭で、所信表明演説も代表質問もないまま、
衆議院を解散し、その勢いで10月22日の総選挙に打って出た。

マスコミは「大義なき解散」と呼び、野党は卑怯な「敵前逃亡」であり
姑息な「森・加計疑惑隠し」を非難、与党もさすがに困惑を隠せず、
「丁寧な説明どころではない、国民を馬鹿にしている」と懸念したが、
国民への信義も説明責任も、民主主義の大義も原則も放り出し、
身内の忠告にも耳を貸さずに、安倍氏が解散権を乱用できたのは、
何があっても安倍さん支持という、不動の支持層を頼めばこそである。
逆に言えば、政権の支持母体こそが、安倍氏という手駒を用いて、
執念でもある長年の悲願を達成しようと、最後の詰めに入ったのだ。

いうまでもなく、長年の悲願とは「憲法改正」。
すなわち「日本国憲法」の廃絶である。
ここ数日、右往左往の大騒動だった野党の解体と再編劇も、
情勢が固まり見えてきたのは、憲法をめぐる対立に他ならない。

民進党の前原氏による、「身売り」ともいうべき希望の党への合流と、
枝野氏の立憲民主党の立ち上げが、それを象徴していると思うが、
改憲や安保法制、野党共闘を巡って、党内で意見が対立し
弱体化する一方だった民進党の解体と分裂は、前原氏という
右派が代表になったことで、もはや避けられない状況だったので、
旗色を鮮明にするという意味でも、結果的にはよかったと思う。

希望の党の小池氏は、7月の都議選で、安倍自民に対して圧勝し、 
反安倍の旗手のイメージが強いが、希望の党の公約を見るかぎり、
新鮮味のない原発ゼロや、消費税率引き上げ凍結などを除けば、
安倍政治と選ぶ所のない、右寄りの政権補完勢力と見てよいだろう。
小池人気だけが頼りなので、資金を持つ民進党の吸収は必須だった。

しかし有権者を唖然とさせた、民進党の希望の党への「身売り」は、
一連の騒ぎが収まっても、決して国民の理解を得たとは思えない。
政党の離合集散は、これまで幾度も繰り返されてきたが、
前原氏の行為は、国民への重大な背信を含んでいるからである。

民進党の地方議員や、最大の支持母体である連合さえも困惑させ、
何より民進党を、自民党に対抗しうる、政権交代可能な政党として、
20年に渡って支え、育ててきた有権者を、篩にかけて間引いたからだ。
希望の党の「踏み絵」や「リベラル排除」に、唯々諾々と従いながら、
前原氏は、民進党員だけでなく、苦楽を共にしてきた支持者にも、
全く同じ、酷い「踏み絵」を差し出し、排除・選別を行ったに等しい。

安倍政権によって失われた、立憲主義と民主主義の回復を願う、
市民たちの血の滲む努力や、野党共闘の盟約や信義などは、
紙屑ほどの価値もない、迷惑なものでしかなかったのだろう。
前原氏は水を得た魚のように、共産党批判を展開していたが、
彼が打倒したいのは、安倍政権ではなくリベラル勢力だったようだ。
おそらく希望の党も、そうした目的のために作られたのだろう。
地元の京都駅前では、演説中に「裏切者」などの野次を浴びていた。

いまや政治不信こそが、国民の理性と分別を保つすべとなっている。

マスコミは相変わらず、空疎な小池劇場を繰り広げているが、
田舎の選挙区も甘く見てはならない。私の身近でも毎日のように、
小池氏や、それに従った地元議員への怒りと怨嗟が聞こえてくる。
有権者の判断はまだ分からないが、このままでは野党が割れて、
議席数を多少減らしながらも、自民党が勝利することになると思う。

マスコミは衆院選の構図を、「自民・公明」「希望・維新」
「立憲・共産・社民」といった、3局の争いとして描いているが、
憲法や安保法制のあり方を争点にすれば、本質的な対立軸は、
「自民・公明・希望・維新」VS「立憲・共産・社民」である。

危惧されるのは、国民が思いを託した票が、収奪されることだ。
たとえば、次のようなケースは充分に考えられると思う。

安倍政治に辟易している人たちが、希望の党に投票したとする。
希望の党は政権奪取には至らなくとも、みごと野党第1党となる。
だが期待した安倍批判を始めるどころか、たちまち政権にすり寄り、
自公と大連立を組んでしまった!もしそんなことになれば、
反安倍の批判票は、そっくりそのまま安倍政権に貢がれることになる。
政党が解散して戦争協力した、戦前の翼賛体制の再現にも等しい。

あるいは辻本清美が、希望の党の「右」と立憲民主党の「左」で、
安倍政権を挟み撃ちすると漏らしていたが、成否はどうであれ、
先程まで一体だった片割れ同志が、選挙後に再び結託すれば、
改憲や安保法制を容認する、2大保守政党が誕生することになる。
その場合、藁にもすがる思いで立憲民主党に託したリベラル票は、
死票になるよりも屈辱的な扱いを受けたことになる。

何度も騙され裏切られた者には、懐疑と不信こそが身を守る盾だ。
騙されたくなければ信じなければよい。権力とは疑うものである。

衆院選で問われるのは、安倍政治の5年間をどう見るかである。
一言で言えば「暴走」に尽きる。身勝手な政治の私物化だったと思う。
それは日本国民の意識を、短期間のうちに無残に変えてしまった。
政治家が率先してルールを破り、信義を踏みにじり、暴言を吐き、
私情で権力を乱用する社会では、人心も荒廃するのが当然だろう。

巷には差別とヘイトがあふれ、障害者の大量殺戮さえ発生した。
軽率な発言はテロリストを刺激し、海外でも日本人が殺害された。
セリフはあるが言葉は死滅し、嘘と隠蔽と屁理屈が日常的になった。
人として大切な共感や信頼、志操や矜持、倫理は嘲笑され、
日本社会は思いやりと健やかさを失い、人々は心に棘を生やした。
私もそうだ。日々、何かを疑い、何かに身構えながら過ごしている。

改憲が、乱暴に主張されるようになったのも初めてのことだ。
だがそれは同時に、眠りこけていた国民の危機感を呼び起こし、
侮れない市民勢力が結集し、政治に働きかけ、野党を共闘に導いた。
単なる護憲か改憲かではない。今問われているのは、危殆に瀕した
立憲主義と民主主義を、国民の手でいかに回復させるかである。

憲法論議は大切なことだ。だれもが堂々とすればいいだろう。
だがもはや冷戦下ではないのだから、従来の右と左のような、
紋切り型の改憲論・護憲論の繰り返しには、すでに意味がない。

国民がうすうす感じているのは、安倍さんはほんとうは、
北朝鮮の核やミサイルなど、たいして脅威だとは思っておらず、
拉致問題や領土問題も、ぜんぜん解決するつもりがなくて、
都合よく長引かせ、改憲に利用しているだけではないかという疑いだ。
なぜミサイル騒ぎもそっちのけに、一転選挙にのめり込めるのか。
それでは国民を守るどころか、危険に曝すことにはならないのか。
大震災の直後に、都合で解散総選挙などされたら、国民はどう思うか。

国の根幹を議論するのに、国粋主義的な価値観を前面に出したり、
隣国を敵視し、戦争の不安を煽るような、乱暴で偏ったやり方では、
冷静で幅広い、客観的で創造的な議論は、とうてい望めない。
それ以前に憲法を守らず、民主主義の理念も規則も無視して、
重要な問題にも、国民への説明責任を果たさない政治家たちに、
国の根幹である憲法をどうこうする資格があるだろうか?

だからこそ、憲法議論を活発にしてほしいと願う人々も、
積極的な改憲論者さえも、安倍政権下での改憲には、
その目的と必要性を大いに疑い、危惧と反対を表明するのだ。

10月22日の衆院選では、
そうした国民の思いを受け止められる政党を選びたい。


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子どもたちに「逃れる道」を示そう
2017-08-31 Thu 21:06

処暑を過ぎると、縁側に、ほんの少し陽が入るようになる。
牧草のように青々としていた水田にも、稲穂が見えはじめ、
ツクツクホウシが無心に羽を震わせ、初秋の夕空に月舟が浮かぶ。
地から湧き立つような虫の雅楽が、今夜も涼やかに聞こえる。

今日で8月も終わる。
大人には今日も明日も、あいかわらず忙しいだけだが、
この日の意味を肌身に感じているのは、もちろん子どもたちだろう。
9月を待たずに、学校がはじまる地域も多いが、
夏休みというものは、できるだけ長い方がいいと思う。

始業式などは、秋分の日を過ぎてからでも充分ではないか。
7月8月は思い切り遊んで過ごし、宿題は9月に入ってすればよい。
学校には、夏の疲れをすっかり癒し、心身の調子が整ってから、
また通いたいと思う子どもたちだけが、通えばよいのではなかろうか。

先日、ネットであまりにも辛い記事を読んだ。
毎日新聞コラムの、「学校へ行きたくない」という記事の一部を
引用、紹介したいと思う。⇒元記事


 内閣府が2015年に発表した「自殺対策白書」に、多くの人が予想はしつつ、ショックを受けた。白書は2013年までの約40年間に自殺した18歳以下の小中、高校生約1万8000人について、その日付を明らかにした。

 それによると、多くの学校で新学期が始まる9月1日が131人と突出していた。この日をはさんだ9日間をみると、約40年で700人以上が自ら命を絶っていた。毎年この期間、日本のどこかで20人近い子どもが自殺しているという現実だった。



なんということか。
一般には「ブルーマンデー」といわれるように、
月曜日の朝に、自殺者が多いのは知られているが、
子どもたちの場合は、夏休みが終わり、
新学期がはじまる、いまこの時が、最もつらく苦しいのだ。
不登校や退学も多くなる時期だが、追い込まれた子どもたちの心は、
生き地獄という言葉すら、なまぬるいものではないだろうか。

コラムを読んだ40代の読者が、自分の子ども時代を思い出しながら、
吐き出すように、「おぞましい季節」と表現していたが、その通りだ。
この方は、自分がよく今日まで生き延びたものだと、感慨していた。

「学校へ行きたくない」のは、決してわがままではない。
学校のことを、罪無くして放り込まれた、刑務所のように感じても、
大袈裟であるどころか、ある子どもにとっては、それがリアリティだ。
ナチの収容所を生き延びた心理学者、V・フランクルの言葉は重たい。

『人間は相当な苦難にも耐えられるが、
 意味のない苦難には耐えられない』


無意味で単調な労働を課せられた人間は、心を病んでしまう。
かといって苦難に耐える意味を、他から都合よく与えられても、
一時的には持ち堪えるだろうが、やがて自分が欺かれたこと、
利用されていることが判れば、そこで麻薬の効き目は終わる。
あくまで自分自身で選ばなければ、意味はないのだ。

それは子どもたちにとっても、おなじように当てはまるだろう。
最悪なのは、意味のない物事に、大人が無理やり意味をこじつけ、
それを理由に苦役を我慢させ、飽くまで頑張らせようとする態度だ。

いじわるな友達、無理解な教師、ついてゆけない授業、
がんじがらめの規則に、毎日のように長時間拘束されながら、
競争を強いられ、自分を無価値だと思い込まされ、人格を否定され、
あるいはいじめや暴行、恐喝にも曝されるような非人間的な環境に、
命がけで堪えぬく意味や目的が、本当に「将来のため」であるならば、
そんな奴隷たちが支える未来とは、冗談ぬきの暗黒社会である。

子どもたちが、学校を徹底的に拒むのは、
人としての尊厳が、そうさせるからだ。
そこには、大人社会への鋭いメッセージがある。

子どもたちはそれぞれが、深い想いと真剣な問いを抱いている。
しかしまだ語彙も少なく、筋道立てて冷静に話をするのは苦手だ。
家族を安心させるために、心では泣きながら、顔では笑おうとする。
やりきれない気持を、「死ね」などの暴言で、言い表すこともある。

単純な大人は、内面を想像することなく、笑顔は幸福の証だと考える。
世の中への真摯な問いかけや純粋な願いは、「中二病」と揶揄される。
苛立ちの余り、子どもがやっとの思いで吐露した想いを、頭から否定し、
お前はダメだと言わんばかりに、不機嫌な顔で説教する人間もいる。

人生の先輩としての、上から目線の理解や指導ではない。
おなじ地面に倒れての、心からの共感はできないものか。
だれもが、かつては子どもであり、若者だったではないか。
夢を潰され、希望を絶たれ、真面目さと純情を踏みにじられ、
抵抗も虚しく大人社会に同化された、そうではないだろうか。
おなじことを、次世代に繰り返していいとは思わない。

必要なのは、子どもたちが追いつめられ、不幸にも自死によって、
理不尽に屈する前に、現実的な「逃れる道」を用意することだ。

文科省も、学校へ行かないことを問題行動であるとはみなさず、
選択肢の一つとして認め、これまで失敗してきた経験を踏まえて、
とにかく早く学校に戻すことが、解決策であるとは考えていない。

行き場を失った子どもたちが、命を絶つだけでなく、
非行や犯罪、売春や麻薬などに走り、闇社会の食い物にされて、
身も心も、容赦なく破壊されてゆく悲劇は後を絶たない。

だからこそ、たくさんの「逃げ道」を示そう。「隠れ家」を築こう。
身も心も気兼ねなく休養できる、ホームベースを整えよう。

長期間引きこもるのもよい。趣味に没頭するのもよい。
転校するのもよい。風景が変えれば、気持が変わることもある。
充分な食事を取ることも大切だ。子どものための電話相談もある。
フリースペースなどの受け皿も作られている。

学校へ行かないくらいで、子どもたちに無用の罪悪感や、
人間不信、将来への不安など抱かせてはならない。
子どもを守れない社会に、未来はないではないか。
心ある、頼もしい大人は必ずいると信じてほしい。

人生に決められたレールはない。
ただ、人の道を歩めばよいのだ。

コラムには、電話相談の連絡先が記されていたので、紹介したい。

チャイルドライン

0120-99-7777

チャイルドラインのホームページはこちらになる。
⇒ http://www.childline.or.jp/index.html

他にも、様々な支援がある。

法務省「子どもの人権110番」 
⇒ http://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken112.html

不登校新聞 
⇒ https://futoko.publishers.fm/issue/4003/


どうか、繋がる一歩を踏み出して欲しい。


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西洋アサガオが元気いっぱい、木をつたって屋根まで登ります。


別窓 | 子ども・女性・家族 | コメント:2
盂蘭盆会
2017-08-15 Tue 17:34

秋の立つ日はあらしだった。
ふたつの原爆忌が、立ち止まり、過ぎていった。
ペルセウス座流星群の夜が明けると、
先祖の眠る山を訪ね、お墓掃除とお参りをした。
その夜は、庭先で迎え火を焚き、家族で読経した。
そして今日は終戦の日。昨夜からつづく雨。

毎年お盆前には、菩提寺の和尚さんが、檀家を棚経に回られるが、
今年は蝉しぐれならぬ台風の朝、降る雨の中をお越しになられた。
わが家では床の間に祭壇を整え、位牌を祭り、庭先には水棚を祭る。
ここ岡山地方では「お盆」のことを、なぜか「ボニ」と呼ぶ。

お盆は日本人の伝統的な祖霊信仰で、精霊会、魂祭とも呼ばれる。
もともとは、仏教でいう「盂蘭盆会(うらぼんえ)」の略称で、
「盂蘭盆」とは、サンスクリットの「ウランバナ」の音写だそうだが、
ウランバナとは死後、餓鬼道に堕ちて拷問を受ける激苦を指すという。
お釈迦様の弟子が、地獄で苦しむ母親を供養した由来と、
伝統的な祖霊信仰が融合され、独特の仏教行事になったといわれる。

お盆には先祖供養の他にも、「施餓鬼」という供養が行われる。
無縁仏や、供養されない精霊(餓鬼仏)のため供養で、この地方では、
庭先に水棚を作りお祭りするが、「施餓鬼」は戦乱や災害、飢饉などで、
無残に命を奪われた死者たちの供養として広まったといわれる。

慌ただしい帰省と家族水入らずで過ごすお盆とは、本来、
生死を超えて霊の救いを願う、なんと悲壮で切実な祈りであろうか。
盆踊りも夏祭りや習俗である以前は、魂を慰める供養であった。

それは現世が、生きることそのものが、悲惨と苦悩に満ちているからだ。
地獄とは絵空事ではなく、この世にこそ、紛れもなく存在する。
人間の根源的な罪業、生きるも地獄、死ぬも地獄という、
わが身を責め苛む、終わりなき因果と輪廻はいかばかりのものか。

この修羅と呵責の凝視こそが、人類の基層を成す精神世界であり、
あまねく慈悲と救済を志した、偉大な聖者らを生みだしたのだと思う。

お盆といえば、子どもの頃は古い風習や梵語に興味津々だったが、
若いころは準備が煩わしく、わざと避けて、海外で過ごすこともあった。
だが歳月とともに、死者たちの存在は、いっそうの重みを増してくる。

血が繋がろうと繋がるまいと、どこの誰とかはもはや関係もない。
この星に生き、死んでいった人々の、平安を祈らずにはいられない。
なぜなら地獄はいまなお、この星にどこかに、常に存在するからだ。
年を経るごとに、この季節の痛痒が、身に応えるようになった。

1945年(昭和20年)の盂蘭盆会の季節。

ポツダム宣言から受諾までの20日間は、あまりに長くて重たい。
死者たちを送るその日に、日本の最後の戦争は終結を迎えた。
それは果たして偶然だったのだろうか。祖霊の導きではないのか。

爾来、この国の8月は、先祖を偲ぶ供養と、死者たちを悼む鎮魂と、
戦争を省みる慰霊の想いが重なる、特別な霊性をおびた季節となった。
無数の眼差しが、いまも厳かに、私たちを見詰め、問いかける。
盂蘭盆会は情緒ではなく、いまここにある痛苦の共有である。

里芋の葉に、銀河の露が零れ、時折ふと風が優しくなり、
真っ赤な鶏頭や、鬼灯(ホオズキ)がゆれる初秋。
夜には尺八と琴の音が聞こえ、虫たちが集く。

72年間、道を過たなかった日本人の歩みを、わたしは心から敬う。
腹切りをしたサムライや、無謀な戦争をした軍人ではなく、
戦争と差別を断固否定して生きた、名も知れぬ人々が残した血路を、
今日まで守り抜いてきた、戦後の民衆たちこそ誇りだと思う。

いつの時代にも、平和をかき乱す者たちは後を絶たないだろう。
だがそれに煽られて、憎しみと敵意を募らせることはないはずだ。
いったいだれが、だれを、なにを、どういう目的で憎ませるのか?
人の心とは、それほど簡単に操られ、沸騰するものなのか。
生まれ育った国の名を、差別と排斥の許可証にしてはならない。

あなたたちが、
引き裂き、憎ませ、殺し合いをさせたくとも、
わたしたちは、
愛し合い、手を握り合い、平和を創ってみせる。


いま、この国で半世紀を生きた者としての、偽らざる想いだ。

戦争は、人の心の中で生まれるものであるから、
人の心の中に、平和の砦を築かなければならない。

(ユネスコ憲章前文より)

二度と私たちは、この世の地獄を作ってはならない。
そして自らもすすんで、地獄に堕ちてはならない。


NGC5152 815



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シンプルな真実
2017-07-31 Mon 17:07

言葉には命がある。
言霊を汚してはならない。

丁寧な説明ではなく、シンプルな真実を語ろう。

嘘いつわりは、自他を欺き、身を亡ぼすもととなる。
隠したものも、いつの日か、明らかにされるだろう。


加計学園獣医学部問題。

なによりも粗末に扱われ、最も忘れ去られたもの。
だれからも問い糺されず、見向きもされなかったもの。

それは数知れぬ、物言わぬ動物たち。

犠牲と感謝を取り引きする欺瞞によって、
限りなく虐殺され、人間に供される無垢のいのち。



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春夜雪花
2017-04-12 Wed 11:03

いまも、この星に季節がめぐり、
すももの花が、今年も誇らしく咲き零れようと、
夢幻のときは、終わりから眺めてこそ、
より慕わしく、愛しく、惜しまれもしよう。

みずからのいのちの終わりを、
世の終わりに、重ねてみるでもないが、
やがて向かうべき、地の涯の断崖が、
いやおうなく、視界に映るようになったいま、
常夜に入るまえに、しばらく留まる間、
沈黙を、新たに聴こえさせる、星霜の語らいを、
だれに咎められても、やめないことにしよう。

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どこぞから来た天使の受胎告知を、みな退けて、
嫁ぐことなく、わが子を産み育てる汚れなき処女は、
やがて雨季の、青が散乱する光粒を纏うて、
血膨れのような果実に、その身を変容させる。

天海に船出した、若い日は遠ざかり、
あらしに耐えた果樹も、古木となり久しいが、
月のない春の夜ふけには、しばしここへ来て、
雪のような花衣の袂を、そぞろ歩きながら、
そわそわする予感に身をまかせよう。

まだ姿は見えないけれども、幾年月
わが命の絹を纏うた、苦悩の精霊たちが、
いつしか、ようやく安らぎ憩える、
清らかな依り代となるために。

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虹の夜 Pulse Unbreakable 
2016-06-16 Thu 10:58

憎しみを憎しみで返すだけなら、
敵の力を倍増させるだけだと?
愛するなど、ゆるすなど、
いまは到底できそうもない。
臆病者よ、偽善者よ、寄り添う者よ、
そのたぐいの説教は、もうたくさんだぞ。

正しさとあきらめの錯綜する、
みずからの重力に歪んだ視界が、
銃と爆弾ではなく、毒を盛る多様性の、
分別くさい寛容さと、無数の言い訳が、
非対称の関心と言及ではなく、
盲人の手を引く、盲人たちの教義が、
洞窟で瞑想する静謐のひとを、
とつぜん、魔境に陥れてしまったのか。
闇を否認するものが近づくとき、
正気は、狂気を纏うて身を守る。

真理が得られるならば、
宇宙のもっとも遠い星までも、探しにゆきたい。
無限の力を得られるならば、
どんな険しい山巓にでも、攀じ登ってつかみたい。

天の海原は堅牢な、無明の虚空ではなく、
星明りが船となり、縁起に導いてくれる。
それはいまここで、わたしが手ににぎる、
風の街路にゆらめく、蝋燭のひとつ。

気高い闇よ、死者たちをいだけ。
夜の理性よ、生き残れる魂を慰めよ。

孤絶して、涙さえも涸れた、
あまたの瞳にも、とおい明日の涯には、
虹の光が映えるように。
わたしたちの心に翻る、誇りたかい旗が、
破られない心臓の鼓動として、
いつでもどこでも脈打つように。


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The Force Theme
2016-02-03 Wed 00:00

夜空に輝く満天の星から星へと、
超光速の翼で天翔けることができたら…
そこでは人間という種族など、
多種多根な生命の、ほんの一部に過ぎず、
地球人なら「神」と呼ぶ優れた力も、
異なる方法と理解によって信仰されている。

なにごとも、はじまりはひとつの出会いからだ。
人が運命に招かれるとき、不思議な縁は必然でもある。
準備がととのったある日、みしらぬ風が窓枠を掃う。

世界は、謎と不安に満ちている。
生命とは、驚くべきものだ。
限りなく美しく、一転しておぞましく、
恵みでもあり災いでもある。
慕わしいのによそよそしく、
抱き寄せもすれば、震え上がらせもする。
人の心にたえず語りかけ、するどい疑問を投げて、
真実への探求をうながす。

そこには、目に見えるものだけが実在するのではない。
隠されたものが数多あり、
心の眼が開かれるのを待っている。
欲という束縛のない子どもの本能は、
その声を聴き分ける。
すべての生命に宿る、至高の宝をつかむための、
冒険に旅立つために。

はるかな国に憧れた遠い昔、
その大それた望みや、魅惑の対象がなんであれ、
おそれも疑いもなく、あふれる夢と好奇心を、
澄んだ瞳で語った、純真な子どもだったころが、
だれにでもあったはずだ。

子どもたちは故郷を飛び出して、
思い切り自分を試したいと望んでいる。
宇宙のどんな生命とも、
分け隔てなく、愛し合えると信じている。
不幸な人々の重荷を、すすんで背負いながら、
奴隷たちを解放する、力を得たいと願っている。
不運だったのは、出会ったどの大人たちもが、
偉大な師匠ではなかったことだな。

人間の最大の不幸は、
自分がなにものかを、知らないまま生きることだ。
神から託された貨幣に不満を抱き、
いつしか全部、腐らせてしまうことだ。

いくつもの機会が、
素っ気なく通り過ぎていったのはなぜだろう?
涙をふいて、追い続けた夢を手放したのは、
いつだったろうか?
諦めることを、大人になった証拠だと、
開き直ってしまったのは?
自分ではない自分を生きる軛を、
すすんで受け入れてしまったのはなぜ?

どんな重圧が、命令と打算が、
そんなことをさせてしまったのか。
力の及ばぬ物事までも、
すべてあなたの責任だと、だれが呟いた?
ささやかな取り引きで得た幸福と笑顔は、
どんなにか不安だろう。

闇に迷ふよりも、光に盲いてから、
どれくらい経つだろうか?
小さな花、ひとひらの雪にも、
心痛めずにはいられなかった素直な日々に、
ふたたび、まみえることはないのだろうか?

いまではもう、聴こえないのかい? 
風の夜に、樹の葉を掠める星雫のような、
未知からの潮騒は。
ある日、砂漠を越えてきた旅人が、
扉を叩く懐かしい音は。

砂を噛むような日々にも、
星と霜の畑を鍬鋤で耕しながら、
子どものように信じて、待ちつづけた心に、
ふたたび種が播かれる。
季節の実が熟すように、
ふさわしい時に、ふさわしい交わりが、
黄昏のあとに、聖なる闇が降るように、
運命の炎が、孤独な魂を包む。

歳月を焦がし、険しい山に連れ出すのは、
力ある者の優しい計らいだ。
どんないのちも、嵐なき安逸のなかでは、
たちまち窒息するだろう。

未来が曇っているなら、
あなたの意思で、昼と夜に分け隔てればいい。
世界が混沌としているなら、
あなたの力で、破壊と創造をもたらせばいい。

人生の、最も創造的で困難なテーマとは、
束の間の肉の宿りから、
万有の生命に戻ってゆくその日まで、
何度でも大胆に、危険な尾根を踏破して、
本来あるべき自己を、
いくつもの顔をもつ神と、英雄たちの似姿として、
あらゆる体験をなしとげながら、
どんな瞬間にも、真のあなた自身を、
みずから選び取ってゆくことなのだから。

熱くもなく冷たくもなく、光でも闇でもないものは、
神の口から、吐き出される。

生涯を通して、あらゆる学びと知識と経験と、
自他をも隔てず、時空をも超えた無意識によって、
さらに終わりなき、とこしえの「道」として…

May the Force be with you!



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夜の刻んだ追慕
2015-02-10 Tue 10:55

風はまだ、冷たいけれど、
今日はじめて、梅が咲いた。
ふたりが国へ、戻って来られたなら、
春はすぐそこで、待っていたのに。

大人たちは、なんにもなかったように忙しく、
終わったことは、頭から、すぐにきれいに掃除して、
マリアムもムリアも、ナターシャも、
ルワンダの家族のことも、なんにも知らないまま、
いや、そんなことはどうでもいいほど、疲れきっている。

いま世界の、どこで戦争が起こっているのだろう。
血を流す人、涙を流す人が、なぜ見えないのだろう。
嬉しいこと、楽しいことしか、考えてはいけないのだろうか。
ニュースで知っても、聞かなかったことにしておけば、
極東の島国では、とりあえず、幸せに生きられるだろうか。

豊かで安全な国だと、自慢して暮らしていたら、
爆弾も降ってこないのに、心は、瓦礫になっていた。
酷い仕打ちを受けても、ニコニコ笑っていなさいとか、
この国は、世界でいちばん素晴らしいですとか、
アメリカ人は捕まって殺されても、自業自得ですとか、
そんなことを喋っている大人たちの、
轍のあとを、追いかけてはならないよ。

不正には、思いきり怒ればいいんだ。
傷ついた人のそばへ、駆け寄ることができるから。
暴力は、心から憎まなければダメなんだ。
そうすれば身を慎んで、過ちをおかさずにすむから。
人間のすることは、ぜんぶ神さまが、見ていて下さる。
黒づくめのその人は、だれよりも弱かったんだ。

遠い西の国に、夕日が落ちるとき、
シリアの砂漠で、最期にじっと目を閉じて、
祈ってくれた人のことを想いながら、
たくさんの涙を、勇気にしてゆこう。

乳色の三日月は、冷たい刃では、決してない。
あれは、声を奪われた子どもたちが、夜に刻んだ追慕。
ハルナとケンジに向かって、わたしたちが誓った約束。
イスラムの友であろうとした、クリスチャンが残した夢。
月が蔭りながらも、光を増して、やがて満ちてゆくように、
嵐にも負けない、潮の高鳴りのように、歩いてゆこう。

飢え死にさせられた、英霊たちのあと追わず、
霧に浮かんだ、歴史の影を、虚しくさまよわず、
あの空は、人が生まれるずっと前から、星を飾り、
何億年もの季節が、いまも大地を、麗しく装うように、
そうやってだれもが、母親から生まれた同胞として、
人が人を、殴り殴られることなく、生きられるように、
ただ、それだけの自由をもとめて。

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宇宙のエヴァ
2014-08-23 Sat 10:32

フレシサム、赤ら顔のお隣りさんの、
時を忘れた草原のふところは、
みずうみのように、万夜の身体を、
すっぽりのみこむ母さんで、
カムイシンタの、幼な児たちは、
月の籠もれる雪の森、ほのかな炉辺、
火のおばあさん神の、膝に抱かれて、
ゆらゆらと、星の揺り籠に夢を結ぶ。

けれども、商人が砂漠を踏むように、
戦士が財宝を貪り、囚人が森を拓くように、
金色にさざめく、プラーナの海を突き破って、
天上を侵犯した冒険者は、ひとりもいない。
そんなことをしたがってみせるのは、
石から生まれたばかりの、猿たちだけだ。

人の知覚は、光に盲いて、
肉は戸惑い、激しく震える。
光よりも高きもの、
不可知の雲の放電。
蓮花の真ん中に、
仏陀の智恵が宿るように、
おだやかな闇の、辺土には、
霊の孤独をいたわる、此岸の実。

いまも、憶えているか? 
どうにか、思い出せるか?
あの高い空は、とおいむかし、
わたしたちが捕えられ、
炎を立てる薪の上で、
最期に見つめた碧空。

神の沈黙。
宇宙の静謐。
慕わしい天の篝火、無音の虚空に、
思念ははや、言葉を有さず、
愛もまた、肢体を用いることなく、
瞳も眼差しも、腕も指先も、姿形も、
衣服も、食物も、住居も、財布も、
どれもみな、そこに投げ出し、
ぜんぶ置き去りにしておいで。

光と陰が反転し、
響きあい、全一に溶け合う、
霧よりも細やかな、
姿なき、在るものよ。

ただひとり、彼女だけが、神に招かれる。

残された地の子らの祈りが、
聖なる炎の、上昇を見まもる。

かもめよ、
星の鏃、涙の散光、真珠、
満ちてくる潮よ。
太陽と月にも劣らぬ、
ロシアの娘。

宇宙のエヴァ。
もし、あなたがなければ、
わたしのいまも、ここになかった。
燃える渇きも、癒されなかった。




ワレンチナ・テレシコワ
(Валенти́на Терешко́ва 1937年~)  

世界初の女性宇宙飛行士。旧ソ連。
1963年6月、ボストーク6号に搭乗。
71時間で、地球を49周しながら、
ボストーク5号とランデブー飛行にも成功。

いま、残された世界において、
テレシコワほど神話的な存在はいないだろう。

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火の夜の想い
2014-07-14 Mon 14:07

雲の入江は、古い風に閉ざされて、
車の軋む音だけが、いつまでも響きます。
鈍色に垂れ込めた 水滴の皮膚を、
地の貪欲が、無慈悲に染めています。

火の夜に胸が潰れて、息も絶えそうな心は、
暁の光に、骨まで微塵に、砕けてしまいましょう。

よそよそしい昼のあいだを這いながら、
黒く焦げた十字架を探しましたが、
会う人ごとの、煤にもよごれぬ笑顔が、
いのちの破片を、せわしく掃除しているだけです。

やがて夕が来て、家に戻ると、雲の外で瞬く
ふたつの星が、虚空にまどう夜の隅で、
火採り蛾はやはり、すすんで炎に赴くのでしょうか。

いくさの神、正義の女神に、こころ騒ぐ夜ごとに、
情愛を焼べた、真白な灰のあとから、
まだ熱いままの、自由を拾い上げなさい。

希望とは、絶望の闇にだけ輝く 灯のことです。
近づいて 摑もうとすれば、もどかしくも遠ざかり、
そこにいればこそ、漣のように素足を洗うでしょう。

世はなんにでもすぐ、癒しと慰めを与えます。
けれどもあなたは、戻って来なさい。

静かに、罪を焼き滅ぼす、業火に堪えながら、
時のおとずれを、固く信じて待ちなさい。

キリエ・エレイソン(神よ、憐れみたまえ) 

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星の間隙
2014-05-12 Mon 10:14

さまざまなものごとの埒外にある
隠されたコードに導かれつつ・・・
目盛りよりも、間合いこそ大切だという、
だれしも経験ある、 単純素朴な実感として・・・

星を見つめる瞳は、
宇宙の深さを宿すそうだ。

・・・東の水平に現れた月の姿に、
海に去った、恋人の嘆きを奏でる、
サッフォーの調べのように・・・
甘美にも、身体には、宇宙が彫られ、
宇宙には、身体が移される、そのとき。

予感しながらも、躊躇する。
人ははじめ、完璧な球体だった。
詩が、奇跡であるように・・・
愛が、もういちど求める結合。

宇宙とは、畏怖すべきもの。
万物もまた、そうだろう。
ひとたび生まれ、存在した生命は、
二度と滅びることはない。

夜明けとともに咲き、
昼までには萎む花のように、
人との出会いと別れも、
いまこれが、最初で最後となるとしても。

永遠とは、始まりも終わりもない、
輪廻のことではなく、
不死とは、 病んだ臓腑を取り替える、
細胞の若返り技術ことではなく、
記憶とは、 脳髄を駆けめぐる、
貧弱な電気信号ではなく、
人もその歴史も、満点星の下の
決して「ちっぽけなもの」ではない。

けれども、星辰の間にあっては、
人は慎ましく、謙遜であらねば。

想像力とは、 時空を観自在に飛翔する、
天女の羽衣なのか?
それとも、 鉄の靴が擦り切れるまで、
人の重荷を運ばされる、牛の歩みのなのか?

天の星は、どれも過去の光。
時間は、晴れた空間になる。
けれども人々の隔たりは、
さらに遠く、離れて、曇り、淀んでいる。

・・・光を・・・跳躍できるのか?
「鉄の靴」が、おそらく成し遂げる。
だからわたしは、軽々しく「愛」を弄して、
「愛」の全能に惚けるところを離れる。

天地の隔たり、 まことの愛の不在、
人の欲の残酷さに、徹底的に傷いて、
打ち砕かれた骨を、神の供え物とする。

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星の聖痕
2013-12-09 Mon 21:28

12月6日の夜、参議院本会議において、
『特定秘密保護法』が可決・成立。
不戦を誓った、日本国の心臓に、またひとつ毒矢が放たれた。

その瞬間を、インターネット中継で視聴した。
頭が真っ白になり、賛成・反対の票数さえ、聞き取れなかった。
人間にとって、もっとも大切なものは、自由だ。

とりあえず、さまざまな印象を、詩の言葉に託そう。
「この星に生きる、いのちのひとつとして」(山本太郎)。
まとまった感想はできればまた後日に、あらためて。
今夜はすこし静かな物思いにふけりたいのです。
Armageddonより、静謐なピアノアレンジでどうぞ。






星の聖痕


夏は沈み、秋も過ぎ去り、月も金星も消えた、
その夜の底は、暗く、冷たく、よそよそしかったか? 
真夜中は、隕石のように熱く、轟いて、闇を焦がした。
上気する大洋の幻ではなく、取り戻すべき明日が肉眼で見えた。
あてなき夢やうつろな瞳は、もうどこにもなかった。

どれほど打ち砕かれても、かならず立ち戻る。
地の息が霜となった朝、旅する彗星を消滅させた、
あの太陽よりも遥か昔に、わたしの命を創られた神のもとに。
千も万も吹き荒ぶ、世の嵐に抗しながら、あなたの園へ。
夕の風が吹くころ、だれにも隠れずに、もういちど自由に、
楽園の果実ではなく、蒼穹の星に、両の腕を差し伸ばすために。

自由である誇りに、胸を張って歩いてゆこう。
やがて、弓矢も凍る季節がおとずれようとも、
逃げ出して道に迷い、凍える友らを叱らず、励ましながら、
ひとりからひとりへ、手と手を握り、傷と傷を重ね合わせて。
雪の衣を血に染めた、気高い姉妹たちを悼みながら、
その日を恐れず、歴史の荒野に光の種を播き続けよう。
葬られた過去は、足音のように消え果てぬ、未来に埋められた地雷。
子どもたちの四肢が吹き飛ぶ前に、わが身を与えよう。

それからどこまでも高く、限りなく上昇してゆこう。
この小さなふるさとだけが、いのちの棲家ではないのだから。
人はもう、鈍色の雨の野で無心に花を摘む、悲しみの器ではなく、
火の衣を落とした冬木立のように、威厳ある七つの光を纏う。
自由な魂は、風見の鶏に道案内を頼まず、
ただひとり立って、神とともに歩み、
いく世も明けぬ闇夜の、絶望と苦悩と不幸を肩に負い、
海の極みを踏んで、重力に耐えぬく。

あの月の面に、どれほどの岩が降りそそいだことか。
乳白の頬を無残に裂いた光条は、霊魂の消えない焼印。
人となり、人のあいだで生きた、神の受けた傷、流した血。
いくたびも混乱し、破壊され、人の罪業に滅びかけた世界は、
聖痕に焼かれた小さき者たちの、まったきおこないにより、
ようやく赦され、救われ、贖われて、朝ごとに生まれ変わる。
人知れず、犠牲は成し遂げられ、世界は更新される。

奇跡の星に生まれて来る、まだ見ぬ子どもたちよ。
天の十字架が風の大地に突き刺さる、美しい冬の夜よ。


地球2

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仲秋夜半
2013-09-20 Fri 00:00

名月は、東の空に愛でるもの。
宴の尽きた、真夜中の丘には、
白い衣の、女たちの輪舞。

太陽は昼を、
戦士たちと過ごし、
月は夜を、
死者たちと過ごす。

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夜半の真白な庭。
星の消えた虚空。

親の目を盗んで冒険する子どもが、
深夜の裏木戸を、ギィーと開けるように、
魂は、おののき騒いで漕ぎ出す、
まっすぐに垂直の空へ。

天の光を、肉に宿し、
目を回して、墜落する。
欲望が、海に網を仕掛け、
銀の鱗を捕える。

世界のはじまりから、
一睡もしない、神の姿に、
悔い改めもせず、わがままに祈る。
力や慰めや、平和や幸いを
早くよこせと、要求する。

安らいで、人は寝入る。

くりかえし、地は震える。

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水蓮
2013-09-17 Tue 09:52

秋晴れの空よりもいいのは、
紗のような雨音やさしい、
露色をした9月の午後。

炎暑の季節を越えられなかった、
いのちのために。

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眠らない工場で干からびた若者の骨。
胃まで焼け焦げて死んだ、節電のお年寄り。        
殻を脱げず力尽きて、餌食になった蝉。
子どもの網の中で、羽を毟られた蝶の弔いに、
天日が顔を覆って、涙をそそぐのに、
人は急かされて、また仕事に連れ戻される。

夏山は、豪奢な緑の絨毯ではなく、
海辺にも、清涼剤の波は打ち寄せず、
空を映した池に浮かぶ、水蓮の無心もまた、
ただ微笑ではないのに。

そうやって、なに知らぬまま、
今日また、踏み越えてしまうのか。
いつか世界とお別れする、
暦の確かな日付・・・

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星の記憶 記憶の星
2013-09-16 Mon 09:41

この荘厳な、瑠璃の姿を見るたびに、
このなかでいま、自分が生きている実感よりも、
ながいながい旅を終えて、ようやく戻って来られたような、
懐かしさと安らぎに、涙があふれるのはなぜだろう・・・・・


瑠璃玉


星にもっとも近いものは、花が宿した命。
足元で踏み潰してしまった青い花たちが、
あなたに残したいのちの香りを、忘れないでください。
目には見えない、調べのような、いく世代もの悲しみです。

墓守りをする女人が手向けた、花に秘めた愛のなかで、
無限に広がり、解き放たれてゆく記憶の波が、
生まれてくる星、死んでゆく星のすべてを、千変万化させる、
輝ける、母の身体となるのです。


月下美人



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茶色の真昼
2013-07-21 Sun 14:04

いつまでも眠られず、安らかさと苛立たしさ、
静けさと騒めきに、胸が奮えた夏の夜。
シュロヤシの葉を滑るように、
月が降りてきた庭の、幻花の香。

これから、どうなるのだろう・・・

子供たちが知らぬまに、銀河鉄道に乗せられて、
天の川の砂浜を北から南へ、神妙に旅しながら、
アルビレオの観測所から、蠍の火の間近を過ぎて、
そのずっと先のサウザンクロスまで向かうのを、
絶対に、止めさせようとして、
ただひとり立ちはだかった人の、弛まぬ歩みは、
いつの日にか、海をも割るのでしょうか。

生きたい。
生きよう。
みんなで、生き延びよう。

真昼の子供たちへ。
焦がされた原子野をあとにして
西の国へ南の国へ、無事に旅立ってください。
西へ南へ、はやく逃れてきてください。
冬になったら、この窓からいっしょに、
地平を掠める南極老人星を眺めよう。

100万年の核に汚染された、赤い地の表には、
虫も喰わないきれいな作物が、びっしり植わります。
瀕死の大地は、多産にあえぐ命の工場。
会社の命令で、種は悶えながら自殺します。

茶色の朝が、今日も扉を叩きます。
死の太陽が、じりじりと照りつけます。
お父さんたちは、みな奴隷です。
お母さんさんと子どもたちは、みな家畜です。
人間なんてもうありません。
あるのは数字と数量だけになりました。

食べ物が並んでいるのに飢えてゆきます。
水もたくさんあるのに飲んではいけません。
病気になっても、お医者には診てもらえません。
薬もあるのに、売ってはもらえません。
事故に遭っても、救急車は来てくれません。

八百万の神さまは、公僕にされてしまい、
いちばん偉い神さまは、お金になってしまいした。
だれにも値札がついていて、売り買いされるので、
高く売れるように、一生懸命自分を磨きましょう。
それが幸せな人生なんだよ。
大人たちが多数決で、そう決めてしまいました。

日の丸の昼間は怖いから、笑顔で過ごします。
けれども夜は耳を持っていて、微かな沈黙を聞きとります。
どこかで枷を壊し、閂を外す音が聞こえます。
お母さんと子どもたちは、遠くへ逃げる支度をします。
お父さんも、早く仕事を辞めようと心に決めています。  

剣を打ちなおして鋤として、槍を打ちなおして鎌として、
咲き続ける花の心を、砕けぬ武器としましょう。
木槿の花と天女の花、
牡丹の花と桜の花
梯梧の花と梅の花

血を流すよりもたくさん、惜しみなく流すのは、
怒れる男たちと、惨苦を共にする煮沸の汗。
怨める女たちと、懊悩を共にする火炎の涙。

人の汗と涙がつくった、海よりも深い湖沼のなかに、
死の太陽がのみこまれ、底に沈んでてゆくまで、
いくらでも差し出しましょう。
死に急がず、生きて、生きて、生き抜いて
最後の一人になるまでも。


※ 文中にある「茶色の朝」とは、フランク・パブロフの寓話からです。
  ナチスの制服を連想させる、「茶色」が意味するものとは?
 

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さようなら、わたしが愛した日本の国
2012-12-17 Mon 09:18

いまはなぜか、昨夜よりも、平静に過ごしています。

この残酷な結果は、すでに見えていたから。
午後8時には、自民圧勝。
単独過半数を確保と、発表されるということも。
おおかた予測できていました。

大震災のあと2012年12月、安倍「極右」政権成立。
こんなことになるだろうと・・・


さようなら、わたしが愛した日本の国

今日でさようなら、
わたしが愛した日本という国。
崇高な理想をめざした影絵ような国。
それはいま過去になった。

原子の火が、羊のような民草を焼きはらい、
死の太陽が、瓦礫の荒野に毒麦を育ててしまった。

その名はふたたび、隣人の災厄となるのだね。
純粋無垢な心で、若者は兄弟を憎みはじめ、
敵を探して、あちこちへ殺されに送られるのだね。

永遠に消えない、焚火に落ちた一瞬間、
わたしの国は、側溝の枯葉のように、
ゆらゆら燃えて、消えて、無くなってしまった。

生ける神が、人間の歴史に触れるとき、
仮借ない裁きが始まるだろう。
天が動くとき、だれひとりその指から、
逃れることができようか。

不戦の誓いを、惜しげもなく棄てた、
春の光にも美の不在する、桜の国よ。
死者をも召集される、菊花の国よ。


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花鳥風月
2012-10-04 Thu 13:23

(花の嘆き)
世界があっさりと、壊されてしまったのは、
みんなが気前よく、ゆるしてあげたからです。
土下座をする人たちは、あとでもっと悪いことをするのに、
やっぱり許してもらえるから、いつも元気いっぱいです。
でもだれが、「ゆるしなさい」って命じたのですか?
花を踏みにじって、あとに残った香りを、楽しむのですか?

(鳥の涙)
世界にいつまでも、不幸が尽きないのは、
みんなのつくる、明るい笑顔が、絶えないからです。
怒ることも、悲しむことも、疲れることも許されず、
涙をふいて、文句も言わず、上を向いて行進するほかないからです。
でもだれが、「笑いましょう」って強いるのですか?
空で見てきた、鳥たちの飛語が、どうしてデマなのですか?

(風の呻き)
世界がこんなにも、色あせてしまったのは、
みんなが、「愛してるよ」って、言い始めたからです。
臆病な斥候の、いい加減な冒険話を信じこんで、
やれば出来るんだと、昼も夜も、夢をあきらめないからです。
祈っても、努力しても、失敗のデータが増えるだけ。
命を守ろうとする声を、風評被害だと騒ぐのは、だれですか?

(月のため息)
世界がどうしても、平和にならないのは、
みんながすぐに、奴隷の幸福を求めるからです。
戦争も、放射能もなんのその、自分さえ幸せになれば、 
網膜には、世界のすべてが、きらきら輝いて見えるからです。
いいところだけを見ろって、だれが言うのですか?
月の裏側の、あばたの顔を、見たことがありますか?

(光の天使)
神さまが世界を、救ってくださらないのは、
みんなが神さまを、召し使いにしているからです。
神さまが人に仕えて、願いを叶えるのではなく、
人が神さまに従って生きるのが、まことの「道」なのに、
そんな神さまは嫌だって、ぽんと棄ててしまったからです。

季節ではないからと、実をつけてなかった無花果(イチジク)の木が、
神さまに嘆かれて、枯れてしまったように、
自由を怖れて、世のしくみに従う、空気に抗えない心も、  
不意を襲われて逃げ込んだ、財布のなかで息絶えるでしょう

大自然の驚異は、成功の法則よりも、偉大です。
季節はずれの無花果とは、良い知らせを聞いて、
はっと神さまのほうに振り向く、自由な魂、生命の躍動。
自由こそが、枯れ木に咲いた花にもまさる、命の奇跡なのです。

別窓 | | コメント:0
九月の空
2012-09-25 Tue 21:21

東の果ての片隅の、小さな弧状の島々には
エジプトも、バビロンも知らぬ民の群れ。 
奪われし山河にもめぐり来る、
春の光に涙する心もなく、
不思議な呼び名だけが、
むなしく、丸々肥えてゆく。

海原よ、波濤よ、きらめく水面に、
よけいな文字を、だれが描いたのか?
大人たちは喜々として、命のゲームをカウントする。
若者たちは黙々と 草生す屍、水漬く屍になり果てよう。
子供たち、あれが明日の きみたちの姿だ。

豆腐のような島の民、忘れ去ってはいまいか?
あなたがたは、どこからやって来たのだろうか?

窓は風の瞳。風は地球の息。
レースのカーテンが、さらさら流れると、
九月の空が、飛び込んでくる。
眼の奥が、海のようにひんやりして、
街の屋根や、遠くの丘は、波打つ水平線になる。
九月の頬はいつも、東を向いている。
はるか東のほうにも、海が広がっている。

南の風と雲の子らは、びょうびょうと絶海をわたり、
タプカルを踊る 長老のような足取りで、
阿呆鳥を脇に抱え、おごそかに、霜の国へと向かう。
青い林檎をかじっていた娘は、ある日、
あらし気配に窓をひらき、そわそわと身を躍らせ、
熟れたぶどう畑を、力いっぱい駆け抜けて、
スネグラチカのように、ついて行ってしまった。

雷鳥の山にも、まりもの湖にも
烈しく、むごい季節がめぐる 火山島の民は、
だれもが、この娘の瞳をひどく忌み嫌ったから、
山に棲み、仙女になるほかなかったのだ。
それから、九月の夜は、冬を貼り付けるようになった。
ぶどうの実は、星の傷みを宿すようになった。
清らかな雨が、畑を潤すことは、もうなくなってしまった。

破り裂かれた大洋の、夜が明ける。
煮られたような朝焼けに、またひと日がはじまる。
海があの紫の元素を、洗ってくれも、清めてくれもせず、
いやし難い過去もまた、こっそりどこかに流し去ってくれぬように、   
刻々と届けられる未来の幻を、おののき見つめる瞳は、
無残に抉り抜かれてもなお、予言する語りをやむまいよ。

夕星が、羊を返し、山羊を返し、
子供たちを、母のもとに戻すように、
ひとつ名に縛れた島人らを、もういちど分かち、
それぞれが乳房を吸った、天地に呼びもどす声がきこえる。
枷を砕き、かんぬきを壊して、窓から外へ飛び出そう。
風を追いかけ、海を越えて、万年の記憶を辿ってみようよ。


☆★☆★☆★☆★☆★


ほぼ、ひと月ぶりの投稿になりました。
白露を過ぎて、陽射しも柔らかくなりましたが、心を裂く出来事が多く、
秋の草にも、「感時花濺涙」の痛みを覚えます。

タプカルとはアイヌの古式舞踊で、神々や先祖への感謝を表し、
儀式の終わりに、経験を積んだ長老によって舞われます。
スネグラチカとは「雪娘」で、ロシアのクリスマスに登場する
サンタクロース「ジェドマロース」が連れている孫娘。
草生す屍(くさむすかばね)、水漬く屍(みづくかばね)は、
戦中に愛唱され、第二国歌とよばれた「海ゆかば」の一節からです。

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紫陽花の夜 木槿の朝
2012-08-30 Thu 21:13

あなたは、わたしが友達と
紫陽花の花を手折って、天に翳しながら
雨夜を徹して 息絶えるほど踊るのを見て憎む。
「道路交通法違反、威力業務妨害だ」と。
それでもわたしたちは踊り続ける。

踏みしめる足元は、悠久の大地ではなく、
火を噴く山、揺らいで引き裂かれる地面、
牙を剝いて襲い掛かる海、天からの大洪水
それが、美しいわたしの国のご神体。
八百万の神さまが、それでもようやく我慢して、 
手心を加えてくださった戒めの一撃さえも、
あなたには痛くもなければ、畏れもしないのですか?

涙に濡れた朝、夏の終わりの庭に咲く 
一輪の木槿 さみしい唇をそっと寄せると、
あなたは嫉妬に駆られて大声で喚く。
「竹がなくても竹島なんだ」と。
それでも、わたしたちは夢を語りましょう。
くぐもった鬨の声が、ふるさとの哀心歌に耳を塞いで、
愚かな誤解から、ついに火器を交えようと倒れない。

その日が来れば、ふたりで島を目指します。
わたしは境港から、チェリナは浦項から船を出して、
途中で海に飛込んで、人魚のように抱きい、戯れながら
幾千万の涙といっしょに、苦々しい歴史をぜんぶ、
海のお墓に抱きながら、お弔いをするんです。

そうしたら、あなたはわれを失った。
わたしは髪を掴まれて倒され、顔を靴で踏み躙られた。
存分に殴られ、蹴られ、罵られながら、気を失った。
「なにが善でなにが悪かは、ただ視点によるだけだ」
「なんでもかんでもゆるしなさい。憎しみではなく愛を」

いいえ、それでもわたしは、信じる道を行きます。
今日も明日も、明後日も、あなたがたが猛々しく、
その腐れた舌が、根から千切れ飛ぶまで喚こうと、
その禍々しい腕が、骨ごと砕け散るまで暴れようと、
わたしたちが、愛と名誉を軽んじて、
途方もない夢がおとずれる暁の水平を目指すのを、
あきらめることなどないのです。


☆★☆★☆★☆★☆★


2012年、熱くも苦い、劇的な夏でした。
紫陽花は、反原発運動(「あじさい革命」などと自称)より。
木槿(むくげ)は、大韓民国の国花。
無窮花(ムグンファ)と呼ばれる、不屈の生命力の象徴。

450px-Dokdo_Photo.jpg
Liancourt Rocks (ウィキペディアより借用)



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Astronaut 星の船乗り
2012-08-28 Tue 20:39

その白い砂浜は、風も吹かず、波もたたず、
音も無く、昼も夜も空は暗く 星が満つ。
古生代の化石よりも雄弁な、靴底の形は、
だれかを待つように、いまも消えない。

乳色の天体を、ふたりだけで歩いた
男たちは、アダムのようだった。
たがいを疎んじて、エヴァを求めた。
ともにあるべき、ひとつなる、わが身を。

それは、巡礼。
花婿の夜の旅。
青い花畑を 踏み荒らした者たちが、
白い丘に、征服者の旗を立てた 勝利の日ではなく、
おののく人の魂が、つつしみ深く、秘めやかに
月女神の頬に、はじめてふれる、敬虔な夜。

なごやかに、熱く、言は熔かされて、
おごそかに、深く、霊は精錬されて、
星をのみこんで、戻ってきた船乗りたち。

たちまち黒い津波が、不死の果実をもぎ取って
垂木の重力が、空っぽの部屋に 時間をおしこめた。
朽ちた船の 舳先は折れ、人の頭は砕かれた。
ざくろの実が裂けて、ぽとりと落ちるように
地の星たちも、ひとり、またひとり、潰えてゆく。

沈黙こそ 奥ゆかしい、英雄たちの美質。
微笑こそ 身の丈の憂いを 
天の光に引き寄せる あでやかな招き。

大きな筒を空に向け、鏡に集めた銀の波を、
ひとみに映す子供たちに、わたしはなにを語ろうか? 
いや、なにも語るまいか。

インタビューでは分からぬ、どの記録にも残されぬ 
夜は、乳のような智恵を、戻してくれるだろうか。   
そのとき、あなたの名も、百合の香となって
安らかに 憂いを、忘れさせてくれるだろうか。


★☆★☆★☆★☆★☆


ニール・アームストロング氏の訃報。
1969年7月、人類ではじめて月面に立った、アポロ11号の船長。
2012年8月25日に死去。82歳。

銀河をわたる初秋の月に、
静かの海を望みつつ・・・


銀月


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